2月20日(火)15:00~17:00 大阪中央電気倶楽部 316号室で瀬川滋会員に講演をお願いしました。また、同時にZoomで東京の会員にも参加いただきました。
タイトルは京大生ながら牧野富太郎を支援した「南蛮美術コレクター・池長孟の物語」です。
池長孟は幼くして神戸の大資産家・池長家の養子となり、神戸一中―三高―京大に進学しました。京大在学中に養父(伯父)池長通が亡くなり、24歳で池長家の当主になりました。
大正5年、朝日新聞が東京で「不遇の植物学者、支援者を募集」という記事を出し、また、大阪でも広告されました。不遇の植物学者は昨年の朝ドラの主人公のモデルとなった牧野富太郎です。この支援を申し出たのが、後の日立の創立者・鉱山王久原房之助と若干26歳の池長孟でしたが、牧野博士は池長孟に支援を依頼しました。池長は借金返済のため売らざるを得なくなっていた植物標本を買い取り、植物研究所を設立し、その開館式を盛大に行いました。牧野は学者肌で無頓着なところがあり、せっかく散逸と海外流出を防いだ標本を整理することもなく、孟の意に反し、この研究所は公開されることがありませんでした。
孟はそれぞれの立場で社会に貢献すべきと考えていました。植物研究所の次は名画を求め8カ月の欧米旅行に出かけます。帰国後の大正12年、育英商業高校の校長に就任します。校長を務めながら南蛮美術の蒐集を始めます。孟の南蛮美術の定義は ①日本人の作品であること ②欧米や中国と関係のあるもの ③美術品であることで、この条件を重視しました。
1927年に長崎絵に出合い集中的に蒐集しました。1931年には長崎絵蒐集をほぼ終え、大丸で長崎絵の展覧会を開催しています。孟は、さらに南蛮画の範囲を広げて挑戦を続け、金に糸目をつけず集め続けます。有名な聖フランシスコザビエル像は孟自身が所有者と交渉し、垂水の別荘を売って破格の価格で購入しています。
1937年、南蛮美術を買いあさりましたが、そろそろ公開するための美術館を作った方が良いということになり、池長美術館を設立しました。4444件の南蛮美術を収蔵しました。
この美術館は戦時中の空襲にも耐えて無傷で残りましたが、戦後の財産税納付に窮して神戸市に寄贈され、現在はすべての南蛮美術は神戸市立博物館に保管・展示されています。
池長孟は文武両道で、自由奔放に多くの著名人とも交流し、身代限りのコレクター魂を発揮し、神戸に不朽の宝物を残してくれました。
牧野から買い取った植物の標本は後にすべて東京に送り返すことになり、別々の道を行くことになりましたが、持ち前のコレクター魂で二人とも大きな仕事を成し遂げました。
詳しくは、講演ビデオをご覧になりさらに詳しい話をお楽しみください。
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