F1参戦物語
市川良彦(1468)

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2025年2月16日(No.431)
市川良彦

DFの活動の柱のお一人だった元ブリヂストン副社長の原田忠和さんが一昨年お亡くなりになりました。とてもレース好きな方で、ご自宅の遺影はF1をはじめとしたレースの思い出の品でいっぱいに囲まれていました。奥様には「F1でのみんなの活躍を最後まで誇りに思っていたのよ」と言っていただきました。
そんな原田さんが副社長、私が開発担当としてチャレンジして“常識を変えた”ブリヂストンF1参戦の‟さわり”をご紹介したいと思います。

「F1はタイヤの使い方がアマチュア。シューマッハにタイヤの使い方を教えてやりますよ」というのはブリヂストンF1参戦前年、1996年の雑誌インタビューで私が話した生意気なコメントです。今思うと顔から火が出るように恥ずかしいのですが、グローバルレースに参戦したことがなかったブリヂストンには、F1への参戦はそれほどの覚悟を持たなければならないような高い山でした。

元々F1はヨーロッパの文化です。しかもタイヤはほとんど注目されてこなかったような‟部品”で、1992年以降はアメリカのグッドイヤー(GY)のワンメイクでした。1996年、そんな世界にブリヂストン(BS)は参戦を決めました。以前から技術担当として、F1参戦を強く主張されていた原田さんがまさしく立ち上げたF1プロジェクトでした。

1996年2月の取締役会で、参戦を1998年から1997年に前倒しすることが急遽決定して‟しまった”のは、まさしく「さあこれからホンモノのF1を使ってタイヤテストを始めるぞ」というまだ走り出していないタイミングでした。プロジェクト開始に伴いレース部門へ呼び戻されたばかりの私が、「原田さん、マジですか? 来年ですよ。間に合わせろと?」とぼやくのに対して「まあ、頑張ってやろうよ」とニコニコして話す原田さんを技術者全員は少し恨めしく思ったのが本当のところです。でも原田さんに言われてしまっては開発を急ぐしかありません。私たち技術者はヨーロッパに行ったり来たりで国内とヨーロッパでテストを同時進行させて開発を急ぎ、並行してロンドンにサポート基地も作り、なんとかバタバタで1997年から参戦できる準備を整えました。

もちろん当時最強だったウィリアムズやフェラーリなどのトップチームが、F1界では海のものとも山のものともわからないタイヤメーカーと契約してくれるはずもありません。タイヤがレースの勝敗をきめるなんて思いもつかなかった時代です。BSと契約してくれたのは全12チームのうち新興チームを含む中堅以下の5チームのみでした。

それでも原田さんと私たち技術陣は勝てる可能性はあると考えていました。F1の連中があまり気にしていなかったタイヤの“耐久性”です。タイヤはゴムの劣化と摩耗によってレース中に急激にグリップダウンしてラップタイムは2秒、3秒と遅くなります。そのためにレース中の2、3回のタイヤ交換は当たり前でした。

私たちはこの‟常識”を変えることでフェラーリにも対抗できると考えました。タイヤのグリップダウンを少なくすることでタイヤ交換の回数を減らして時間を稼げば、一周が速い車にも勝てるんじゃないか? 確かにF1への参戦は初めてでしたが、日本のレースやアメリカのインディレース、ルマン24時間レースなどF1以上にタイヤへの負荷が厳しいレースで戦ってきてタイヤを劣化させない技術には自信がありました。

参戦初年度1997年のシリーズが始まりました。第2戦のブラジルGPで早速タイヤの差がでました。プロストGPのパニスが予選5位から追い上げて3位で初表彰台です。GYがグリップダウンして2回タイヤ交換をする中を1回交換で乗り切りました。その後、モナコ、スペインと立て続けに表彰台にあがり「BSはグリップダウンしない」という話がパドックで話題になりました。特にスペインでは予選12位でチームにもメディアにも「遅い」と思い切りたたかれた後の決勝でした。GYが3回交換のところ、2回交換で見事2位を獲得し、パドックでの評判は思い切り手のひら返しです。でもさすがになかなか優勝には手が届きません。「初年度に無理言うなよ」と、心の中で思いながらも本音ではそろそろ優勝が欲しいころ、真夏のハンガリーGPが来ました。

ブタペスト近郊のハンガロリンクはとてもグリップが低く最高速も遅いサーキットですし、高温でタイヤも‟タレ”ます。非力なBSのチームにもチャンスがあるかもしれません。さて予選は、前年にBSのタイヤ開発に付き合ってくれたアロウズのデーモン・ヒルがなんと3位です。そしてレース、ポールポジションから出たシューマッハのフェラーリをヒルが追いかけます。タイヤのグリップダウンが厳しいフェラーリのシューマッハを追い詰めて11周目にオーバーテイク、あとは引き離す一方です。

2位との差は30秒ほどにもなりました。ついに独走でBSの初優勝・・・、のはずでしたが好事魔多し、とはよく言ったもので車両が故障してギアが2速のままになりあと2周で突然のスピードダウン。最終周にウィリアムズのジャック・ビルニューブに抜きかえされてしまい、残念ながら2位で終わりました。悔し涙です。結果的にF1参戦初年度1997年には優勝することができず、このレースがBSのハイライトとなりました。

しかし、このレースでBSの高性能は決定的になり、翌98年からマクラーレンやベネトンというトップチームがGYとの契約を途中破棄してまで移籍してきました。「タイヤで勝てる」という‟新常識”をF1にもたらすことができたわけです。

1998年はマクラーレンと組んでフェラーリ+GYのシューマッハに対抗し、見事年間チャンピオンタイヤとなりました。その後もしばらくF1での戦いは続きますが、そこらへんの話はまた機会があればご紹介させてください。

「次は何をやろうかね?」後日、原田さんに言われた言葉です。いつも明るく人をやる気にさせてくれる方でした。


いちかわ よしひこ(1468)
(理科実験グループ、技術部会)
(元 ブリヂストン)

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