地域デザイン総合研究所 OVER80
第37回安全保障問題分科会開催

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日 時2025年3月6日(木)10:30~12:20
会 場スタジオ751 + オンライン
講 師篠原浩一郎氏 (元全学連中央執行委員)
テーマ「元全学連中央執行委員 篠原浩一郎氏 “大いに語る”」
参 加18名(ゲスト3名を含む)

2025年3月6日(木)10:30~12:20、OVER80第37回安全保障問題分科会、テーマ「元全学連中央執行委員 篠原浩一郎氏 “大いに語る”」が、18名の参加者(ゲスト3名を含む)を得て、スタジオ751およびオンラインで開催されました。
金井勇司会員のご尽力で、素晴らしい講師をお招きしての集いとなりました。
60年安保闘争は、戦後日本の大きな節目でした。特に、日本経済は、その後、高度成長期に突入しました。何故、当時の学生は、莫大なエネルギーを結集できたのでしょう。何故、岸内閣を打倒する必要があったのでしょう。

当時の全学連の幹部であった、唐牛健太郎、西部暹、森田実、小島弘等は、次々と他界しており、現在、昔を語れる数少ない人物が、篠原浩一郎氏です。
大学卒業後、同氏と全学連委員長・唐牛健太郎は、国際的な顔を持つフィクサー・田中清玄、日本最大の任侠組織のドン・田岡一雄、そして財界の官房長官・今里広記とどのように付き合ってきたか等、大変興味のあるお話をお聞きすることができました。

実は、講演後の新橋亭での懇親会でも大いに盛り上がりました。まだお話しし尽くされていないと感じた参加者達から続編の希望が多くあり、検討したいと考えています。
講演の内容については、当分科会主宰和田文男さんが事前にした8件の質問への回答にポイントが含まれていますので、転記して代わりと致します。

[質問者:和田文男さん、回答者:篠原浩一郎さん]

質問1: 篠原氏がリーダーの一人としてリードした「60年安保闘争」(1959-60年)は岸内閣による「日米安全保障条約」改定への反対運動がテーマであったが、この改定は、それまでの条約が日本側の基地提供だけを定め、米国側の日本防衛義務の明記が無い非対等条約であっただけに、日本にとって改善といえる改定であり反対運動を行う理由は無かったのではないか? 
尤も、改定条約には沖縄は適用されず、又、条約文言で「極東の有事」の極東の範囲の不明確さ等、多くの疑義が有り、政府の説明が十分になされていなかったが。

回答1: 講和条約がソ連などを除外した部分講和であり、旧安保条約もソ連などを敵視したものなので日本が再び戦争に巻き込まれるものとして反対でした。新安保はさらに日本自体が軍隊を持つことを内外に宣言することを意味していると受け止めました。1945年8月廃墟の中に生き残った日本人は『2度と戦争はしない。武力は持たない』と心に誓ったはずです。第三次世界大戦があってはいけない。世界中が国連の下、武装放棄に向かわなければいけない。日本はその先駆けになるのだ。旧安保は講和条約締結の条件だから吉田茂一人がイヤイヤ署名したが、新安保は日本側が率先して改訂署名を急いでいる。岸首相の強引な国会運営にも戦前の政治の再現を見て、これを許したら学徒動員までまっしぐらだと思ったのです。

質問2: 改定安保条約は国会外の多くの市民デモ、学生デモ、商店街によるデモまで発生したにもかかわらず、岸首相の強引な国会対策(右翼やヤクザの利用も含め)により、自然立法に持ち込まれ成立するが、あれほど嫌われた岸内閣の後を継いだ自民党池田氏の選挙大勝となり、直前までの安保闘争が嘘のようであったが、どのように判断されているか?その後の日本経済の高度成長を考えるとデモに明けくれるより経済発展の熟する時期が来ていたのであろうか?

回答2: その選挙では浅沼暗殺もあり社会党が大勝し(24議席)自民党も議席を伸ばしました(17議席)。強引な岸首相が退陣し、「寛容と忍耐」の池田首相が憲法改正を棚上げして自由経済重視を掲げて登場したことに満足したのでしょう。岸首相の憲法改正、軍事路線と計画経済、いわゆる開発独裁路線が粉砕され、自由経済への転換が図られ60年体制がスタートしたことに、経済界も生き返る思いをしたに違いありません。社会人になった私たちの仲間の佐藤誠三郎、香山健一、公文俊平、志水速雄、森田実たちは自由経済、平和日本を守る提案を自民党主流に訴え続けました。以後、憲法改正は今日まで誰も手を触れることができませんでした。60年安保闘争に参加した日本国民は安保改定には負けたが、岸首相の真の目的だった憲法改定阻止では65年にわたる勝利を収めたと言えるのです。

質問3: 全学連の唐牛委員長はじめとするリーダー達が運動から手を引かれたのは、シラケ世相に嫌気されたのか、それとも共産主義への失望等イデオロギーに関する理由からでしょうか?

回答3: 「日本共産党は革命政党にあらず」と言って真の革命政党を目指して共産主義者同盟(ブント)を結成して安保闘争に取り掛かりました。社会党は国会内で果敢に戦っているけれど、日本共産党の妨害で労働運動はなかなか盛り上がりません。危機感を抱いた私たちは「虎は死んで皮を残す。ブントは死んで名を残す」を合言葉にこの安保闘争で消滅してもよいとばかり、大量の逮捕者を出しながら街頭や国会前で戦つたのです。労働組合は共産党の指導で、全学連の跳ね上がりに巻き込まれると称して国会デモを避けるのですが、幸い文化人たちが私たちと呼応して国会デモを盛り上げてくれました。闘争が終わって、安保改定は行われたから敗北したと思い、敗北の原因についていろんな意見が噴出してブントは分裂してしまいました。共産主義は科学的社会主義だと信じているものだから、理論闘争が燃え盛ります。スターリンが間違っているとして共産主義同盟ブントを作ったが、自分たちまで仲間どうしで殴り合っている。スターリンと同じじゃないか?どうもレーニンもおかしい、マルクスもおかしい、人民のための活動とは何か?群れていても分からない、バラバラになっていきました。死者、負傷者、逮捕者、裁判継続者、退学処分者など多数の犠牲者を残し、闘争を続けるもの、続けないものに。
この闘争の犠牲者は学生だけでなく、暗殺された浅沼社会党委員長をはじめ労働者、俳優や一般参加者、取材記者多数が負傷しました。岸首相は退任直後刺され、警官にも多数の負傷者と複数の自殺者も出ました。

質問4: そもそも、全学連はどのような組織で、篠原さんはどのようにして九州大学で「社会主義学生同盟委員長」や全学連の幹部になられたのでしょうか?

回答4: まず、学生の特色を理解しておいていただきたいと思います。純粋で頭で真理を掴みそれが正しいと信じ自分も他人も巻き込んでいく。人生経験が短く結婚もしていないので、命を軽く考えている。親の脛齧りで金の値打ちがわからないから、金をもらってもそれに縛られることがない。執行部も無給。労働者のデモは、職場全員が出てくるのではなく、割り当て動員なので、日当交通費支給、逮捕されると職場をクビになる。学生は学生大会でストライキ決議があれば全員動員が原則。日当出ない、逮捕されても大学処分はされないが、ストライキの学生大会議長は処分。共産党の学生は卒業後も大学の教職や事務職、労働組合の職員になり後輩の学生を指導することができるが、新左翼系活動家は締め出され職がなく安定して左翼活動を続けられないので、後輩の指導が出来ず、理論を深めることも、内ゲバを防止することも困難。
それでは全学連の説明にまいります。1945年敗戦以降、職場には労働組合ができ、大学にも労働組合と学生自治会ができます。全員強制加盟で入学金と一緒に自治会費も徴収されます。1948年に全日本学生自治会総連合(全学連)が結成され、執行部には日本共産党学生が進出しました。東大だけで共産党党員は400人と言われました。常に共産党本部に学生運動は振り回されたのです。1960年当時は加盟学生は30万人でした。1958年に全国の学生運動家の過半数を共産党から脱党した共産主義者同盟が占めることになりますが、東京では早稲田と東京教育大の執行部は共産党に握られたまま、 全学連委員長は東大または京大と言われていましたが、当時の東大、京大にその余裕がなく、北大、九大が激しい闘争を繰り返していたので、経験を積んだ北大の唐牛が委員長に担ぎ出されました。唐牛の明るい風貌、言動が新しい学生運動にマッチして全学連の活動はかつてない盛り上がりを見せました。付け足しに九大から私が社学同委員長として東京に行きました。

質問5: 当時、全学連に対し「反共右翼」の田中清玄氏から活動資金の援助を受けていたことは確認されていますが、一方で、当時の米ソ冷戦を背景にソ連からも日本共産党や社会党に活動資金が援助されており(ソ連が認めている)、全学連としては「反共」「反ソ」の意図もあって田中氏の資金援助を受けられたのか?

回答5: 60年安保で田中清玄から最初に受け取った金は16万円と東原全学連財政部長から聞いています。安保闘争は過去に例のない大闘争になりデモのたびに多数の逮捕者を出すことになったので、面会、差し入れ、弁護士手配、保釈金と莫大な金が必要になり、自治会費ではとても足りないので、街頭カンパ、知り合いの社会人、先輩、文化人の家を手当たり次第回って資金カンパをお願いして歩いたのです。その一人が田中清玄でした。裁判闘争は65年経った今でも続いています。田中清玄は金だけではなく、戦前の武装共産党委員長の経験から対共産党対策や岸首相が8億円を児玉誉士夫経由で暴力団に渡し全学連などのデモに殴り込ませる謀略をいちはやく掴み、その対策を一緒に考えたりしてくれました。
日本共産党は1922年コミンテルン日本支部として発足、常にソ連共産党の指示に従い、資金の全てを受け取っていました。1960年前後は毎年約10万ドルを受け取っていたという証言があります。私たちはソ連や日本共産党は、「共産主義」を看板にソ連の利益のために働く第五列、詐欺集団だと見抜いたのです。

質問6: 「70年安保闘争」は60年安保闘争と異なり、大学運営への改革が活動の中心であったと考えますが、如何でしょうか?
1960年代半ばから多くの大学で運営問題を抱え、旧態依然の問題が浮き彫りになって出てきており、大学当局、教職員、学生間で紛糾していた。
1964年慶応、65年早稲田、66年中央、68年東大医学部、日大、全国の8割の大学で紛糾発生、69年東大・東京教育大で入試中止、政府立法で「大学の運営に関する臨時措置法」で解決に警察力導入を行う。
全学連リードによる激しいデモ、校舎立て籠もり、学校責任者との大衆交渉、内ゲバ、「よど号」ハイジャック(1970)、連合赤軍(1971-72)等により国民の支持を失い、その後の学生運動不毛の時代入って行く。
篠原さんを含む「60年安保」のリーダー達はこの「70年安保闘争」に関与されていないと思いますが、最後は過激な武力闘争に走り自爆闘争に対し、どのようなお考えをお持ちでしょうか?

回答6: 60年安保闘争は全国数100万のデモとなり、岸首相は自衛隊の出動を命じますが防衛長官も自衛隊幹部も国民に銃を向けることの重大さを考え拒否しました。警察はここで必死になって学生に立ち向かい、かろうじて制圧してきましたが、6月15日〜18日の50万人のデモにはなす術を失って成り行きに任せるしかありませんでした。学生側は指導者が全て逮捕されて、これまたどうすることもできなかったのです。「全学連が国会に火をつける」という噂が広がり閣僚議員が逃げ去った首相官邸に岸信介と弟の佐藤栄作二人がとり残され、今にもデモ隊が官邸に乗り込んでくるのではないかと覚悟してその夜を過ごしたと聞きました。その後、佐藤栄作は首相になると異常なまでに学生運動を敵視して、日大闘争、安田講堂など学園紛争が内部で合意に達して解決済みにもかかわらず警察を介入させ合意をひっくり返し大騒動にさせたのです。
佐藤首相のもとで機動隊の大々的な強化が図られ、警察力の過剰な行使が学生たちを秘密活動と過激なゲリラ闘争に向かわせることになります。分派闘争での内ゲバや閉鎖社会での仲間のリンチは残念なことですが、当事者の資質ではなく、普通の人間が持つ動物的習性が現れたもので、事前の教育訓練が余程徹底していないと道徳心だけで抑制することは極めて難しいのです。
ベトナム戦争反対の国際的運動の高まりを受け日本の学生運動も高揚しますが、分派闘争の中で学生自治会の分裂も深刻になり、動員数は減る代わりに活動家の数は60年安保の10倍にもなったと見られます。彼らはその後、官僚やビジネスマンでなく、複雑化した日本の各層に散って付和雷同することなく個性豊かに今日の日本を作り上げてきました。
社会体制に疑問を持って何らかの活動をする学生は常に3%や5%はいるものです。国際NGOや弱者救済、老人介護や障害者介護に走り回っている若者たちがたくさんいるではありませんか。医学部にも「医は仁術」と貧民街や僻地医療に一生を捧げる学生がいます。日本人には縄文時代に培われた平和と友愛のDNAが色濃く残っているのです。

質問7: 現在、日本を取り巻く世界の環境は極めて不安定で、厳しい状況です。同盟国の米国の思い付き政策次第でどのような巻き添えを食らうか分かりません。
日本の政治も劣化しており、このような環境のもとで日本の若者の政治への関与についてご意見をお聞かせください。

回答7: 賃上げに政府が介入してくる。半導体オール日本と言って国から金を出してもらっては失敗を繰り返している。従業員が中国でスパイと言われて刑務所に放り込まれても放置している。国内では中国の悪口が溢れかえっています。ゲッペルスは「国民を戦争賛成にするのは簡単だ、『敵が攻めてくるぞと』一言言うだけで良いのだ」と言ったそうですが、中国との戦争を避けるために経団連は何をしているのでしょうか、知恵を絞ればいくらでも戦争を避ける対策が出てくるはずです。せっかく溜め込んだ金を戦争で吐き出させようと世界中が狙っている気がします。政治の劣化だけではない。経済人の劣化の方が著しいと見えますが、どうでしょうか?若者は常に大人の行動を批判的に見ているので必ずこうした社会の歪みを正すように行動すると信じています。

質問8: 学生運動から引かれて、ご縁があって民間の日本精工に今里社長の誘いで入社されますが、民間企業でのお感じになった事はどのようなことでしょうか?
当時の日本の財界の動きについてお感じになった事はどのようなことでしょうか?

回答8: 「労働運動をやらせてくれ」「どうぞ、どうぞ」と日本精工の多摩川工場に配属され、11年組合役員として自由に活動させてもらいました。「労働者は何を求めているのか?マルクスが言う『資本主義の墓掘り人』になれるのか?」など考えるために貴重な11年でした。
当時の財界人は戦後、生産管理から革命へと荒れ狂う企業現場に飛び込み、警察や占領軍も頼りにならない中で、独力で共産党系組合と戦って、秩序を取り戻してきた自信に溢れていました。NTTや国鉄の民営化、日中国交回復、ソ連から原油の調達など自分たちの問題として率先して行動してきました。成田空港問題が長引き停滞すれば、反対同盟と直接話し合って解決を目指すように「資本主義社会の運営は全て経済人の責任だ」と思っていたはずです。田中清玄は電源防衛闘争、王子製紙闘争などで共産党の破壊工作と戦い、日本共産党から「右翼」とレッテルを貼られ憎まれましたが、石油危機には海外から石油を持ち込むなど、日本の危機の度に彼が果たした功績は大きいものがありました。社会に責任ある成人がしっかりとこれからの日本を考えて欲しいと思います。

以上(保坂 洋)  

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