2025年3月16日(No.433)
武田邦信
今回寄稿の機会を頂きましたので、日本の小さな町で行われている慰霊祭を紹介させて頂きます。私は、令和元年(2019年)までその慰霊祭に毎年参加しておりました。その後は息子に参列を任せておりますので以降参列はしておりませんが、その慰霊祭は、愛知県新城市設楽が原長篠で行われている「長篠の戦い」を後世に伝える為のお祭り(のぼり祭り)の一環として行われております。



この「長篠の戦い」は、1575年織田・徳川連合軍5万・武田軍1万5千の両軍が両方から山が迫る狭い場所で連子川を挟んで、山側に馬防柵を構築して待つ連合軍。武田軍は長篠城を攻略する為、騎馬隊を中心とした部隊で進軍して連子川を渡り、当時は湿地帯を踏み越えて馬防柵を攻落する為攻めかかった戦でした。


右側が武田軍

残念ながらこの戦で、騎馬隊は鉄砲の標的となりほぼ全滅して武田軍は撤退した戦でした。残った連合軍は勝どきを上げ、味方の戦死者をともなって引き揚げていました。余りにも武田軍の戦死者が多いので連合軍は武田の戦死者を残した結果、地元の領民が戦死者を尊厳を持って弔い、現在まで続いてこの塚の名前を「信玄塚」と命名して450年、毎年設楽が原の皆さんによって慰霊祭が行われております。この時代は、勝鬨を上げた軍が敵・味方差別なく塚を作り死者を慰霊して悼み引き上げるのが戦作法となっておりました。


信長公も450年後まで領地内で慰霊が行われるとは想像もしていなかったと思います。この様な慰霊が行われていることを、甲斐の国まで伝わらず武田の家臣団の親睦会(旧温会)の誰も知らなかったのですが、昭和に入り愛知県長篠の皆さんが「長篠の戦い」の武田の戦死者に対し「信玄塚」を作り毎年慰霊をして頂いていることが分かり、この慰霊に武田神社・甲府市・旧温会の皆さんと参列するのが毎年の行事となっておりました。我々は、慰霊祭に山梨の水を持参して慰霊塔・戦死者の墓標に水をお供えして廻るのが参列する目的でもあります。



お祭りでは、近隣の新城市の小学校三校が当日休みとなり毎年持ち回りで、武田軍・織田軍・徳川軍に分かれて自分で作った鎧を着て戦絵巻を再現して、地元の歴史を忘れない様に皆で思い出作りと共に、歴史の勉強をしております。戦国時代に日本各地で戦が行われておりますが、敵領地内で450年間敵戦死者の慰霊が行われているのは殆んどない物と思っております。甲斐国から遠く離れた地で負傷・戦死した将兵は、さぞ寂しかった事と思うと共に設楽が原の皆様に長年守って頂いたご苦労に感謝をする旅でした。
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以 上
たけだ くにのぶ(1465)
(蕎麦打ち同好会)
(元・丸紅)