2025年7月1日(No. 440)
池田弘道
長崎県の山村に生まれ幼稚園に通う
私は長崎県の大村市の貧しい山村に生まれました。幼稚園や小学校までは片道3kmあり、子供の足で山道を1時間かけて通うという生活をしていました。異文化というと外国の文化とのインター・ナショナルな出会いを思い浮かべるかもしれません。

しかし、私にとっての最初の異文化体験は、山村から街の幼稚園に通ったときのインター・リージョナルな文化の違いとの出会いでした。自宅の近所にはドラエモンのジャイアンのようなガキ大将が居て、三角ベースの野球をやっていても5分毎に自分に都合の良いようにルールや判定を変える子供でした。
一方、私が5歳になって幼稚園に通って街の子と遊ぶと、皆ルールを守って遊ぶので驚くとともに、とても楽しく感じました。私にとっては肯定的な異文化との出会いでした。山村で敵に囲まれたような環境では、ペチャ(メンコ遊びのこと)の腕を鍛えました。幼稚園の帰り道、街の子供たちからたくさんのペチャを勝ち取った興奮で、道脇のどぶに落ちてしまったことも楽しい思い出です。
中学生の頃
小学生から中学生になっても、街にある学校がどんどん好きになって行きました。
中二の時にブラスバンドの先輩に「アマチュア無線」を教えてもらいました。5冊の教材をそっと渡され「アマチュア無線の資格を取りなさい」と勧められました。
当時、東京では小学一年生でも資格を取ったと雑誌で知りました。しかし、長崎県には「電話級アマチュア無線技士」の受験会場はありませんでした。父が中古の車でフェリーまで使って、熊本の国立電波高校の試験会場に、4時間ほどかけて連れて行ってくれました。そこで出会ったのは、船員さんと思われる、仕事で無線を使う人たちでした。その人たちに「子供の遊びじゃないんだぞ」という目で睨みつけられたような気がしました。
資格は取りましたが、自分の境遇と比べて全く違う人たちに出会った時の感情は私の中では未消化のまま残っていたと思います。

高校生から大学生になりたての頃
高校生になると「高校二年生」という学年誌には、「バイオリンの練習をする前にフランス語の詩を読んで情感を高めている。」というような東京の高校生の記事が載っていて、「東京もんはすごかとばい」という畏れやあこがれが強くなりました。
東京に進学し、大学ではアメリカン・フットボールを始めました。哲学科の講師をしていた監督から「アメフトは、報酬を求めない究極の遊びである。」と教えられました。しかし、『いなかの高校生』だった私は、「強い体を作るという報酬を求めてはいけないのですか?」という的外れな質問をして、「それは良いんだよ」とにこにこして答えてもらったことを、昨日のことのように覚えています。「報酬を求めない究極の遊び」の反対は「日々の生活費のための生産活動」ではないかとわかるまでに結構時間がかかりました。


幼い頃を今一度振り返って
故郷の山村では、小学校に入ると子供は労働力とみなされました。みな、学校から帰ると農業の手伝いをしていたのです。中には小学校に許可をもらい、自宅で飼育している豚の餌のために、大きな病院で残飯をもらいうけ、毎日自転車に積んで、帰宅するという人もいました。私は許されて、日曜日に両親と一緒にピクニック気分で畑に行く程度でした。それで、ジャイアンのようなガキ大将も含めて、毎日働いている子供たちに対しては、申し訳ないというか劣等感すら感じていました。同じように、無線技士の試験会場で出会った船員さんと思しき人たちにも、引け目を感じました。
その頃を今一度振り返ってみると、両者からは「日々の生活のために生産をしている」という「覚悟」と「誇り」を幼いなりに感じとっていたのでしょうか。
おわりに
ディレクト・フォースの多くの皆様からは、苦労の多かった生産年齢を経て歳を重ねられた今、余裕とともに「報酬を求めない究極の知的な遊び」の方向を向いておられるような感じを受けます。
私も仕事を通して5か国18年の海外経験があり、異文化には精通したつもりでいましたが、幼いころの経験を通じて消化しきれていない違和感などにも目を向けてみると思いがけない気づきもあり、肯定的に捉え直すこともできるなあと感じています。
これからも未消化の違和感にはときどき目を向けて、新たな気づきを得て大切にしたいと思います。
以 上
いけだ ひろみち(1424)
(授業支援の会)
(元・ブリジストン)