2025年10月16日(No.447)
山本明男
冷戦時代の旧東ドイツ(東独)で1984~87年までの3年間、元勤務先の鹿島建設の技術者としてドレスデンと東ベルリンで2つのホテル建設に従事し、東ベルリンでは2年余り家族を伴い駐在していた。今から40年も前、SNSもなく英語が通じない社会主義圏での生活を振り返り、冷戦時代の東ドイツ-壁の向こうでの出来事をご紹介したい。

東独と日本の正式国交は1973年に結ばれ、その数年後の1976年から11年間、鹿島はフリードリッヒ駅至近の中心街に国際貿易センタービル(IHZ)を建設、続いてライプツィヒ、ドレスデン、東ベルリンに最高級ホテル3棟を建設した。当時東独内で働いていた日本人は、プラント建設会社や一部の総合商社、そして鹿島とごく少数である。その頃三井物産ドイツに勤務されていたDF会員の國安さん(1315)とは東ベルリンでお会いしている。この頃、若き日のプーチンがKGBの一員としてドレスデンに駐留しており、元メルケル首相も牧師の子として壁の崩壊まで東独で暮らしていた。1989年11月にベルリンの壁が崩壊し東西ドイツ統合、1991年にソ連邦が崩壊となる少し前のことである。


(1)陸の孤島 西ベルリン
第二次世界大戦最後の激戦地ベルリンは米英仏ソの4か国による共同統治となった。その後東から西への越境を食い止めるため、1961年8月以降、西ベルリンの周囲に延べ155kmに及ぶ壁が構築され、東西冷戦の象徴となった。1989年の壁崩壊まで、米英仏軍は西ベルリンに、ソ連軍は東ベルリンに駐留し、東・西ベルリンを相互に監視していた。西ベルリンを車でパトロールするソ連軍は、西側に逃亡しないよう忠誠心の強い家族持ちの兵隊が配置されていたようである。
陸の孤島となった西ベルリン市民約200万人の安全を担保するため、西独政府は兵役免除や税制面の優遇など多くの特典を与え、人口流出を防いでいた。西ベルリンと西側諸国との往来は、飛行機か鉄道と車(東独国内を抜けるアウトバーンはビザなしで通過可能)によるルートが確保されていた。1948年のソ連によるベルリン封鎖とその後の米英仏による大空輸作戦のような孤立状態となることを防ぐためである。
西ベルリンとの国境には東から越境しないよう、高いコンクリート壁だけではなく、西につながる運河や河川は鉄柵で封鎖、鉄道や地下鉄の駅には銃を持った兵隊が常駐、車での移動は有名なチェックポイント・チャーリーでの厳しい検問があった。同様に西ドイツと東ドイツの国境(約1400km)には、越境者を見張るセンサー付き自動射撃装置が3万基以上設置されていたそうである。それでも自家製の気球や潜水艦、車を防弾仕様に改造するなどして西への脱出に成功した人もいたが、大部分は失敗に終わり、射殺されたり逮捕された人は数知れない。
ホテル建設現場では日本から大工職人を数名派遣し、日本人社員の手元・スーパーバイザーとしてしばらく働いていた。休日に彼らが車で西ベルリンへ出かけた際、チェックポイントの国境検察から車に何か隠し持っているのではないかと疑いをかけられ、検問所内にある修理工場へ車を移動させられた。検問所の担当官から工具を与えられ、指示に従い車のシートや扉などを取りはずさせられた。もちろん怪しいものは何も出てことなかったが、その後、分解した車を元の状態に戻すため、職人さん達は汗だくで悪戦苦闘するはめになった。西側の外国人への悪質ないやがらせとも思える。
(2)なにかが違う東ドイツの風景
東ベルリンで生活しはじめると西側の景色とは異なる世界が広がっていた。街には広告看板等はなく、無機質な建物群が建ち並び、落書きやゴミはなく、東独製2気筒の大衆車トラバントやチェコ製のラーダが走り、黙々と働く人々の姿があるが、なぜか彼らには覇気や笑顔が感じられない。西からの観光客が訪れる東ベルリンの一角は、近代的なビルやマンションがあり、映画のオープンセットのように綺麗に整備されていたが、そこに住んでいたのは選ばれた市民のみとの話である。少し裏道に入ると古い建物の外壁には戦争の弾痕が残っており、あちこちに警官や兵隊が立っていた。労働許可証があり東西を自由に出入りできる我々はその光と影の現実を間近に体験することができた。
社会主義圏では働ける人は「全員労働」が原則。仕事に男女の区別はなく、当時9割以上の女性が労働に従事していた。公共の場で障がい者や車椅子、ホームレスの人など見かけることがないのも不思議で、一説には労働力にならない人々は収容施設に入れられ、働かない人は犯罪者として検挙され、どこかで強制労働させられていたようである。
当時、私の長女は現地の幼稚園(Kindergarten)に通っていた。共稼ぎを前提とし朝7時~夜7時までオープンしており、親の勤務時間に合わせていつでも子供を預けることができた。長女担当の先生は身長が180cm以上ある体格のよい優しい女性であったが、あとで伺うと元オリンピック出場を目指していたボート競技の選手だと知った。
公園の遊園地は、将来オリンピック選手候補となりそうな運動神経の良い子供を探す場所でもあった。どこかから運動コーチがこっそり見ており、もし有能な子供がいれば、家族全員がスポーツ競技養成所のある場所に移動させられたそうである。遊具に滑り台とブランコがなかったのは、体操競技種目とならないからであろうか。
東独のアウトバーン高速道路を走ると何キロも真っすぐで周りに何も障害物がない平らな場所がある。これは有事の臨時滑走路であり、戦闘機が離着陸するためである。また東ベルリンの交差点信号はすべて手動切替可能で、私が現場事務所に通う道路では、時々ホーネッカー国家評議会議長の乗る高級車がすべての信号を青にして高速で走り過ぎていた。中心街の交差点で車で信号待ちをしていたとき、突然地面が地響きしたので何事かと思うと、脇を戦車の群団が轟音を立てて走る光景に出くわしたこともあった。
ある日我々の現場事務所の近くで軍による古い建物の爆破解体工事があった。半径300mにいる人々は一時的に強制退避を命じられ、爆破後の粉塵が落ち着くまで1時間近くもかかった。また中心街にある歴史的なドーム屋根に大きな石の彫刻像を設置するため、軍のヘリコプターを使って吊り下げる大工事もあり、さすが軍国社会だと感じた。
(3)いつもどこかから監視されている
当時東ベルリンで働く鹿島の日本人関係者は家族も含め総勢40名近くで、国から貸与された中層集合住宅に分散して住んでいた。外見は立派でも中身は安普請の建物で、入居後我々が最初に行うことは、西ベルリンのDIYショップで頑丈な鍵や隙間充填剤・シールなどを調達し、玄関扉の鍵本体を交換し、外壁コンクリートパネルの隙間を埋めることから始めた。鍵を交換しないと留守中に部屋の中を物色されるリスクがあるためである。アパートの管理人は我々外国人には愛想がよく、何か頼めば親身に助けてくれるが、実際は外国人が妙な行動をとらないよう絶えず監視する役目を担っていたようである。


日本人幹部のアパートには固定電話があったが、これらはすべて日本語の分かる盗聴担当者がモニターしていた。公衆電話で相手と話し始めると「カチャッ」という小さな音がするので、盗聴がスタートしたな?と推測できた。ホテル現場においては床や壁のコンクリート打設前に設計図面には表示されない東独側による「Sonder Netz(その他の通信配線=盗聴配線)」工事が義務づけれられていた。この特殊配線工事中、我々日本人は現場立ち入りが禁止されていた。外国人が宿泊するホテルの特別客室や会議室には盗聴器が設置されており、西側VIPの会話をモニターできる場所は「222号室」であったことを覚えている。

月に1~2回土曜日に家族で西ベルリンへ息抜きと食料買い出しに出かけていたが、当時の西ドイツでは土曜日のスーパー営業時間は9時から12時まで(※月に1回17時まで営業する土曜日あり)であった。チェックポイント・チャーリーでの出国検問を抜け、開店と同時に店に入り、買い物リストをすべてクリアーするまで水も飲まず必死に買い物を続けた。その後一息入れてようやくレストランで昼食。西ベルリンに住む私の親戚に家に立ち寄り、夕方まで2家族で一緒に過ごし、夕方また東ベルリンに帰宅するのが楽しみでした。頻繁に東西ベルリンを行き来するのでパスポートは東独の出国スタンプだらけとなった。
西ベルリンで購入した大量の食料や雑貨を車に積み、再入国の検問をクリアーするのは至難の業。東独の労働ビザがあるとはいえ、持ち込み禁止項目(西側の音楽カセットテープや映画のビデオテープ、雑誌、政治色の強い書物等)が見つかれば、すぐに別室に呼ばれ徹底的に職務尋問、ポケットや財布の中まで検査され、パスポートはコピーされて彼らのブラックリストに載るのだ。こっそりTVガイドを持ち込み、運悪く見つかった時は、個室でかなり説教された。
やっと東のアパート駐車場に到着。しかし車から大量の買物荷物を降ろすのは夜暗くなるまで待たなければならなかった。というのもアパートの窓から駐車場にいる我々の行動は丸見えで、いつも住民の誰かがこっそりカーテン超しに見ていた。東独駐在期間中あの不気味な「見えない視線」を感じない日はなかった。車好きの鹿島の現場所長Oさんが週末郊外を走り回っていた翌日、現場の東独側建設幹部が『Oさん、昨日はずいぶんお急ぎだったようですね・・・』と薄笑いしながら話しかけてきた。外国人は絶えず警察にマークされており、東独国内に監視の目があることを知らされた。
(4)東独の店舗、レストラン、闇両替
全国民が公務員として働く職場では生産性向上が第一だが、品質重視や顧客へのサービス精神は感じられなかった。街の本屋に入るときは出てくる人から買い物かごを受け取り、順番に入るのがルール。店ではカウンター越しに欲しい品物を店員に頼んで下見してから買うのが通例。そのため本屋の外に待ち行列ができていた。レストランに席の半分程度しか客がいないのは、従業員が自分達の処理能力を超える過剰労働をしたくないため。店のマネージャーと握手する際、手のひらに西ドイツマルクコインを潜ませてチップを渡すと、いつも良い席に案内してくれました。
東西ドイツ分割により、親戚や知人・友達が東・西で分かれ離れになった人たちは多くいたようだ。西側に住む人達は時々東独の親戚を訪ね、西独マルクをいくらか渡すことができました。しかし東独市民は外貨を使って買い物をすることは禁止されており、東独が発行する金券へ両替する必要があった。東独国内には Intershop と呼ばれる西側の商品を販売する国営店舗(ドルショップ)があり、金券で購入できました。ある時私が Intershop に立ち寄った時、一人のドイツ人が外貨で直接商品を購入しようとしていた。すると店員は彼に向って『あなたは東独国民なのだから、金券でしか買い物できないことは分かってるよね!』と厳しい口調で注意されていた。身なりや話し方で東の人だと瞬時に判別できるらしい。
西独マルクと東独マルクの正規な両替交換レートは1:1だが、両替では1:5~10になる場合もあった。闇両替は当然犯罪であり、東独の人から頼まれても絶対しないようと会社から厳しく注意喚起されていた。しから国境を自由に行き来できる西ベルリン駐留の米国軍人の中には、10倍に増やした東独マルクで高価なマイセン陶器などを買い、国境ノーチェックで西側に持ち込んでいた人もいたそうだ。我々社員の現地給料は一部東独マルクに強制両替が義務付けられており、長期滞在している社員はどんどん溜まっていく東独マルクの使い道に苦慮していた。私の場合は東で出版されている美術書や写真集、琥珀のネックレスや飾り物、“二級品扱い”のマイセン陶磁器(陶器の裏に一級品売り物ではない印あり)などを購入した。クラッシック音楽ファンはレコードや楽譜等を購入。現地のオペラやコンサートへの入場料に使う人もいた。
(5)ザクセンハウゼン
ナチスの強制収容所と聞けばすぐにポーランドにあるアウシュビッツを連想されると思うが、第二次大戦中にナチスが造った強制収容所はドイツ、ポーランド、チェコ、オーストリア等に数百か所あった。政治犯や同性愛者等を収容するダッハウ等の「強制労働収容所」、移送途中に収容するテレジーン等の「通過収容所」、そしてアウシュビッツやトレブリンカなどのユダヤ人抹殺目的の「絶滅収容所」の3種類あったそうだ。
駐在中に見学した「ザクセンハウゼン」は、東ベルリンの北40kmのオラニエンブルグにあり、ナチスが初期に政治犯等を対象に設立した強制収容所で、その後様々な恐ろしい施設が追加され、収容所のモデルとなったことで有名である。市の1/3近くを占める広大な敷地内に、最も監視しやすい形状とされる正三角形の収容所があり、塀の中には三段のバラック、レンガ工場、ガス室や人体焼却炉、処刑場、解剖室などがあり、1945年までに10万人以上のユダヤ人が犠牲になった。
東独時代に訪れたときは収容所内博物館の陳列はまだベーシックなものであったが、そこで犠牲となったユダヤ人達の入歯や眼鏡、髪の毛、所持品の山などを見ると胸が締め付けられた。東西ドイツ統一後、ザクセンハウゼン施設は改善・整備され、見学しやすくなっているようだ。当時東独の現地校に通っていた鹿島社員の子弟がここを見学した際、あるところで足を止め『これ学校の体育で使っている…』と指さしたものは、なんと手りゅう弾。東独では手りゅう弾を使って砲丸投げ?の練習をしていたことを知り、背筋が寒くなった。東独では社会主義体制になっても負の遺産はまだ何らかの形で受け継がれていたのでは?と心に重しを載せられたような複雑な気持ちであった。
(6)チェルノブイリ原発事故発生
1986年4月26日、今のベラルーシ国境に近いウクライナのチェルノブイリ原発4号炉で大事故が起き、爆発した火柱は上空2000mまで上昇し、放射性物質が西風に乗って北半球全体を汚染した。事故当時、我が家は復活祭休暇でオランダまで家族旅行し、車で東ベルリンに戻るところだった。西側のニュースでは放射能性物質放出はハンガリーとポーランド、東ドイツ周辺にも拡散し、大気や土壌が汚染され始めているとの報道があった。
当時東独は農業生産に力を入れ、多くの農産物を西側に輸出し外貨を稼いでいた。原発事故直後、西側諸国が東独からの農産物納入をすべて停止したため、輸出予定の野菜や果物が東独内のスーパーに放出されはじめた。普段売り物にならない“訳あり”の野菜や果物しか目にしたことのない東独の人々は、放射能汚染リスクのある農産物に狂喜して群がった。もちろん、当時の東独市民は原発事故の実態と放射能環境汚染の影響を知るすべはなかった。
それからは、西ベルリンに住む親戚から信頼できる最新情報を得て、まだ幼児だった次女には原発事故前に製造された粉ミルク(汚染された牧草を食べていない乳牛)を与え、安全だと確認できる食料品を調達した。その頃会社のトップが東ベルリンで施工中の現場を視察する予定があったが、急遽取りやめとなり、現地残留の社員と家族は大変寂しい思いをした。
(7)東独滞在中の予期せぬ出来事
ある日曜日の午後、私は東ベルリンのアレキサンダー広場を一人で散歩していた。その時、東洋人らしき人が私に向かって歩いてきた。相手の顔を認識できる位の距離に来た時、彼が北朝鮮の幹部らしいと分かった。というのも襟に金日成バッジを付けていたからである。彼は自分の前に立ち止まり、きちんとした英語で道を聞いてきた。私は不気味な感覚に包まれながらも質問に応え、彼は納得してそこから去り、私は後ろを振り返らず足早にそこから離れた。ちょうどその頃日本では拉致問題が発覚していた時代であり、私もその対象になった可能性があったかもしれないと思うと、背筋が寒くなる思いである。
当時の東独にはソ連や北朝鮮以外にも社会主義同盟国(北ベトナム、リビア、エチオピア、キューバなど)から出稼ぎ労働者が働きに来ていた。郊外列車や市電に乗るとこれら出稼ぎの人々をよく見かけることがあった。ワンマン方式の市電では車内後方にある自販機で自分で切符を購入していたが、ここにも監視の目はあった。私が乗り合わせた市電では、突然乗客の一人の男性が立ち上がり、秘密警察の証明書を見せながら、有効な切符を持っているか乗客全員をチェックすることがあった。その時北ベトナムあたりからの労働者は運悪く無賃乗車で、即刻警察に連行されていった。特別待遇扱いの我々日本人でもこの国では犯罪者になりかねない。
ホテル建設現場では平日は日本人コックが料理する食堂で日本食を食べることができた。土曜日は食堂が休みのため、現場近くにある街のレストランにランチに出かけるのが楽しみであった。ある時日本から派遣された職人親方達と一緒にレストランのカウンターに座り、料理が出るのを待っていた。そこに東独の美人女性が一人で入ってきて、すぐ隣のカウンター席に座った。彼女はおそらく職人の一人に興味があるのでは?と、我々はニヤニヤしながら日本語で彼を冷やかしていた。しばらくすると彼女はクスクスと笑いはじめ、急に流暢な日本で話し始めた。我々はビックリしてなぜ日本語を上手に話せるのかを質問したところ、彼女は東ベルリンにあるフンボルト大学で日本語を専攻しており、自分の日本語力を試すために横で様子を伺っていたとのこと。ということは、彼女は政府機関のスパイかもしれず、東独の悪口などを放言せずに良かったと冷や汗をかいた。
東独の広場を歩いていると、時々長い列を目にすることがあった。現地の人に聞くと、普段は目にすることのないキューバ産バナナなどが時々市民に限定放出されることがあるとのこと。彼らは外出時に常時網のエコバッグを携帯しており、何を買えるかは考えず、とにかく列に並ぶこと。そして運が良ければ珍しい品物を手に入れることができた。バナナでさえ高級品扱いなので、現場主催のパーティでマンゴーやキーウィフルーツなどを出した時には、東独の人たちは目を丸くして「これは何か?」と質問してきた。
逆に当時の東独には我々が驚く食べ方もある。ドイツでは「タルタルステーキ」という牛や馬の生ひき肉に薬味・卵黄などを添えて食べる有名な料理がある。東独側プロジェクト幹部主催のレセプションに呼ばれた際、なんと“豚肉”のタルタルステーキが出された。さすがに豚の生食は寄生虫や食中毒のリスクがあるのでご遠慮したいと言うと、ここで出す豚肉は厳格な衛生管理をパスしたものであり、安全で大丈夫だとのこと。だまされたと思い、恐る恐る食べることになったが、その晩、案の定、お腹が緩んだ記憶がある。
(8)東独市民の生活-光と影
西ベルリンと隣り合わせの東ベルリンでは西の電波が良く入るため、大部分の東独市民は西側のTV番組やラジオ放送を傍聴することができた。かれらは家ではこっそり西側番組を観て東西の情報源の違いと何が正しいのかの矛盾を感じながらも、公の場では一切口外できず、表面的には社会主義体制下での規律正しい生活をしていたのではないかと推量する。
そんな監視社会において、市民のやすらぎはコンサートやオペラ鑑賞、家庭菜園作り、森や湖などでの散策であった。東独の主要都市であるドレスデン、ライプツィヒ、東ベルリンには専属の交響楽団があり、我々もクラッシック音楽やオペラを安価で楽しむことができた。冷戦時代とはいえ、芸術鑑賞には東も西も区別はなく、窮屈なトラバントの車から正装した夫婦が出てきて、仲良く腕を組みさっそうと劇場に入る姿は印象的であった。週末には狭いアパート住まいを離れ、郊外にある家庭菜園に移動し、家族でこじんまりした小屋でノンビリしながら果物や野菜を育て、自家製の瓶詰保存食を作り、冬に備えていた。そして若者は夜、街のライブハウスに出向き、東のロックミュージックに興じていた。
この頃の東独は厳しい管理下にあり、公共の場では争いやケンカ、盗難もなく、一見平穏な風景であり、東西ドイツ統一後もその頃の東ドイツを懐かしむ人々もいたようである。我々のアパートの下階に住む老夫婦は戦前のドイツを知っており、古き良き時代を懐かしながら、当時の様子を話してくれることがあった。東独では労働生産力を期待できなくなる高齢者に対し、男性は65才、女性は60才になると西ドイツへの一時訪問を許されていた。西ドイツに親族がいる人はまだ恵まれていたが、誰も知りあいがいない場合、長年自由を切望し壁の向こうの西側に行ってみたが、東側の人は歓迎されず、みじめな経験をするだけで、すぐに戻ってくる人が多かったと、本音を話してくれた。
この時代の東独は生産性向上第一主義で、環境政策はほとんど取られていなかった。二酸化硫黄を排出する褐炭を大量に利用したことで粉塵汚染をもたらし、外貨稼ぎのため西独からの廃棄物を受け入れ、有害廃棄物処理も不十分であったことから、河川や大気・土壌に深刻な環境汚染をもたらしている。負の遺産処理には膨大な年月を要するものである。
東独国民には秘密警察である国家保安省(シュタージ)による監視が徹底されており、職場や家庭内においても相互監視体制が敷かれ、妻や子供が父親を密告するような悲しいケースもあったそうだ。壁の崩壊後に東独市民が押し掛けた所は、西ベルリンの歓楽街と、東ベルリンの政府シュタージ本部建物であった。東独国民一人ひとりが秘密警察から実際どのように見られていたのか、無数の個人ファイルが物語っていたのである。

1987年ベルリンのグランドホテル建設プロジェクトが無事完成し、帰国準備をする中で、東独入国時に政府機関に預けさせられた日本の運転免許証の返却を求めた際、東独の役人からは「どこを探してもあなた達の運転免許証は見当たらない・・・」とのつれない返答。しかたなく日本に帰国後、東独の運転免許証を日本語に翻訳し、更新講習を受講してようやく日本の免許証に書き換えることができた。あの時紛失した25人余りの日本運転免許証が、どこか外国の組織に流れて悪用されていないか、心配の種はつきない。
壁が崩壊し、東西ドイツ統一後36年の歳月が経った現在でも、冷戦時代に東独で育った人達は時々過去を否定される場合があり、雇用や待遇面などにおいて何らかの差別や偏見を受けるケースがあるとのこと。誇り高いドイツ国民が東西分け隔てなく本当に自由平等に生活できる社会となるにはもう少し時間が必要なのかもしれない。その日が一日でも早く来ることを願いつつ、東ドイツ冷戦時代の長い想い出話を終えたい。
やまもと あきお(977)
(海外旅行研究会、環境部会)
(元鹿島建設、元明治大学経営学部特任教授)