第47回OVER80安全保障問題分科会報告

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秋山武夫さん(NY在住、米国弁護士、元丸紅)は前回の分科会から出席され、皆の議論を聞いて、米国の動向に関する認識について問題提起がなされました。

45年以上米国に在住して目の当たりにした様々な事象についての考察は、米国の行動を理解する上で、多くの者が目から鱗が落ちる思いをした放談会となりました。2026年4月29日(水)昭和の日と祝日でしたがZoomによるオンラインミーティングは2時間超の実りの多い放談会となりました。

OVER80安全保障問題分科会の新参者の私として、皆様のメールでの議論を大変興味深く拝読いたしました。今までのメールを拝見すると議論の天秤が一方の方向に大きく傾きかけているように思われます。私としてはこの点について別の立場からDevil’Advocateとして意見申し上げ、議論のバランスを保ちたいと考えております。ここでの議論が生まれた背景について十分に理解しているわけではなく、誤解があるかもしれませんが、私なりの意見を以下に述べさせていただきます。

以下に述べる内容は、現象面ではなく、その背後に存在する本質を理解することを目的としています。川の流れは上から下へと向かうのが本質です。局所的に流れが反転することは多くあってもその基本的な方向性が揺らぐことはありません。同じように、個別の事象には多くの例外が存在しますが、本質を理解しなければ、なぜそのような現象が生じるのかを把握することはできません。そのため、本稿では本質を浮き彫りにするために、あえて極端な表現を用いている箇所があります。各論においても同様の趣旨であることをご理解いただければ幸いです。何が本質なのかについては意見の分かれるところではあると思いますので、みなさんの活発な議論をお願いします。

私はアメリカの民事分野を専門とする弁護士であり、国際法を扱ってきたわけではありません。したがって、以下の見解は国内法の視点を基礎とした一市民としての考察であり、学術的な国際法理論を提示するものではありません。

本稿は「あるべき論」ではなく、「現実の国際政治をどのように理解すべきかと」という観点からの考察です。また、政治の専門家としての意見ではないことも併せて申し添えます。

多様化する社会において、民主主義とは基本的に多数派の意思が少数派に対して制度的に強制される仕組みであると言えます。日本のように比較的同質的な社会では理解しにくい側面もありますが、アメリカのように人種・宗教・文化の多様性が進んだ社会では、価値観の対立が顕著に現れます。

交通規則のような便宜的規範とは異なり、宗教や存在意義に関わる価値観については、相容れない対立が生じます。そのような状況において、少数派にとって法の遵守は、価値観の共有によるものではなく、違反した場合の罰則との比較衡量によって決定される側面を持ちます。この意味において、国内にあって裁判所は共通規範としての法律や、正義を体現する存在というよりも、社会的秩序を維持する制度的装置としての傾向が近年ますます強くなっているということを理解すべきであります。

国内社会では、国家という強制力を有する主体が存在し、法秩序が維持されています。これに対し、国際社会では国家の上位に立つ強制的権力は存在しません。国連の枠組みも、常任理事国の拒否権によって制約されており、統一的な強制力を持つとは言い難いのが現実です。

したがって、国際法は国内法とは本質的に異なり、その実効性は国家間の合意や力関係に依存しています。イランとイスラエルの「正義」が一致しないことが示すように、共通の価値観の存在も限定的です。この意味において、国際法は規範としての意義を持ちながらも、その実効性には本質的な限界が存在します。

国際社会において、各国は自国の安全と繁栄、すなわち国益を最優先に行動します。そして日本を含む世界各国の政治家はこれをもとに自らの言動をjustifyすることを躊躇いません。しかしながら国と国との関係は多くのケースで、コンフリクトインタレストつまり利害の対立がおこります。そして一方が利益を得れば、他方が損をする、ゼロサムゲームの世界です。

国際法や規範は重要な役割を果たすものの、それらはしばしば国益の追求という現実の中で解釈・運用されます。自国にとって有利な場合には国際法を援用し、不利な場合には無視するという行動は、歴史上繰り返し見られてきました。

国際社会には統一的な強制力が存在しないため、安全保障は最終的に国家間の力の均衡に依存します。アメリカのイランに対する武力行使が国際法違反であると指摘されたとしても、それを強制的に是正させる手段は現実には存在しません。この点において、国際社会は戦国時代の勢力均衡に例えられる側面を持っています。つまり「Might is Right」これが国際社会の本質であります。

戦乱の世においては、太閤殿下に物申す者はなく、ひとたび逆らえば、大名といえどもお取り潰しとなりました。その後、徳川家康によって国を統べる強大な権力が確立され、その権力のもとで秩序が維持されました。この構図は、かつてのアメリカにおける「パックス・アメリカーナ」にも通じるところがあります。しかし、オバマ大統領がアメリカはもはや「世界の警察官」にはならないと述べたことは、この変化を象徴的に示したものであり、実際にはそれ以前からそのような流れが形成されていました。例えば、アフガニスタンからの撤退、同盟国に対する防衛負担の増加要求、関税政策を通じた経済的圧力、さらにはグリーンランド購入構想やイランに対する軍事的・経済的圧力などに見られるように、現在のアメリカは国際秩序の維持者というよりも、自国の利益を優先して力を活用する国家として振る舞っています。

日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という文言は、戦後の歴史的背景の中で形成された理想を示しています。しかしながら、国際社会の現実を踏まえると、この理念をそのまま安全保障の前提とすることに現実的ではありません。

仮に日本がソ連に占領されていたならば、全く異なる憲法体制が成立していたことはあきらかです。「将軍様、金正恩様」とやっているのでしょうか。

国家が自らを守る能力を持つことこそが、主権と独立の基盤であり、国家の尊厳を支える要素であると言えます。

ジャングルの中でシマウマがライオンやハイエナに囲まれて生き延びるためには、自らを守る力が不可欠です。同様に、国際社会においても自衛能力を欠く国家は他国の支配を受けることになります。国内では殺人事件により一人の人が殺された場合、おお騒ぎになります。国際社会での紛争では、何千、何万の国民が抹殺されることになるのです。

前回の日米首脳会談に先立ち、石破元首相は「トランプ大統領と会談するのであれば、高市首相はまずアメリカのイラン攻撃が国際法違反かどうかを正すべきである」と発言しました。仮に評論家が述べるのであれば一つの見解として理解できますが、国民の安全と国益を担う政治家が口にすべき発言とは言えません。

このような主張を行ったとしても、短期的にも長期的にも日本にとって何らの利益をもたらすものではありません。むしろ、日米関係の悪化を招き、日本国民に大きな損失を与える可能性があります。その意味で、この発言は驚くほどナイーブであったと言わざるを得ません。党内野党の政治家としての高市首相に対するハラスメントですら考えられます。こうした発言の背景には、自らの主導権が十分に発揮できないことへの感情的な反発があったのではないかとも勘ぐられます。いずれにしてもトランプ大統領に対し、そんなことを言い始めたら、ゼレンスキーウクライナ大統領の二の舞になります。

政治家とは、国民の安全と利益を託されたフィデューシャリー(受託者)です。その政治家が、自らの理念や「“べき”論」に基づいて国民の安全を危険にさらし、国益を損なうような言動をとることは、極めて無責任な態度であると言えます。

このような状況において重要なのは、「何が正義であるか」を考えることと同時に、「何が現実であるか」を冷静に理解することです。国際政治の場では、理念のみならず現実的な力関係を踏まえ、状況に応じて巧みに対応していく姿勢が求められます。一国の安全保障と国民の生命を預かる政治家が、現実を無視して机上の議論に終始することは、決して許されるものではありません。

国家安全保障において、同盟の意義は極めて大きなものです。確かに、アメリカが有事の際に必ずしも軍事的支援を行うという保証はありません。「支援をするが金を出せと」いうことも充分想像がつきます。しかしながら、同盟の存在そのものが潜在的な介入の可能性を示し、侵略を企図する国家に対する抑止力(deterrence)として機能します。

日本を攻撃することは、単に日本との戦争を意味するだけでなく、アメリカとの軍事衝突に発展する可能性を伴います。この不確実性とリスクこそが、侵略の意思決定を思いとどまらせる重要な要因となります。

歴史的にも、誤った認識が戦争を引き起こした事例は少なくありません。ロシアによるウクライナ侵攻は短期的勝利の見込みに基づく誤算が指摘されており、アメリカのイラン攻撃も誤算ではありました。日本の真珠湾攻撃も「アメリカの対日制裁に関わる有利な和解を武力行使を実現できると考えた幼稚な誤算、アメリカの反応を過小評価した結果でありました。これらの事例は、抑止力の認識が国家の行動に大きな影響を与えることを示しています。

したがって、同盟は必ずしも完全な安全を保証するものではないものの、その存在自体が国家安全保障において不可欠な役割を果たしていると言えます。

国際社会においては、理想や規範だけで行動する国家が必ずしも生き残れるとは限りません。経済学における「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則は、本来、価値の低い貨幣が流通し、価値の高い貨幣が市場から退場する現象を指しますが、この考え方は国際政治の現実を理解する上でも示唆的です。

他国が力による現状変更や覇権の追求を行う中で、一国のみが理想論に基づいて行動した場合、その国家は安全保障上の不利益を被る可能性があります。この意味において、国家は国際社会の現実を踏まえた対応を取らざるを得ません。

国際政治において、理想や規範は重要な意義を持つものの、それだけでは国家の安全と繁栄を確保することはできません。現実の力関係と国益を踏まえ、それらをいかに戦略的に活用するかが極めて重要です。

国際法や理念を単に遵守する対象として捉えるのではなく、国家利益を実現するための一つの手段として理解し、現実とのバランスを取りながら行動することが求められます。

すなわち、国家安全保障において必要とされるのは、「理(理屈)」ではなく、「利(現実に基づく利益)」を、また「感情(理想)」ではなく「勘定(計算)」をベースに、双方を踏まえた戦略的思考であります。

以上、私見ではありますが、皆様のご議論の一助となれば幸いです。 (秋山武夫)

以 上(保坂洋)

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