5月16日(第461号)
越後屋秀博
ベートーヴェンの第九を2012年から歌い始めてから14年になる。勤務先の顧問弁護士の先生から第九を歌うのは素晴らしいよと勧められて、ある合唱団に何気なく入り、銀座泰明小学校で練習を始め、ICレコーダーにバスのパートの音源を入れて、通勤電車の中で500回聴いて、500回口をパクパクさせて練習した。コロナ禍の前のことでマスクもせずに周囲の人には奇異に映ったことだろう。

そして無謀にもその5か月後、なんとサントリーホールでデビュー。この時は同時にモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、ヴェルディの「行け、わが想いよ金色の翼に乗って」とクラシックの名曲2曲も歌った。今思うと誠に汗顔の至り、汗が噴き出しそうになる。
爾来、第九は「国技館5000人の第九コンサート」を始め、毎年1回通算11回歌っている。よく飽きもせず歌っていると言われるが毎回新しい発見があり、歌えば歌うほど気分は高揚し、恍惚感に満たされる不思議な曲である。

第九はシラーの詩「歓喜に寄せて(An die Freude)」を基に「苦悩を突き抜けた歓喜」を表現した、人類愛と平和を歌う壮大な楽曲であり、英語では“Ode to Joy”と呼ばれ、世界的に平和の讃歌として親しまれ、EUの公式歌にもなっている。
ベートーヴェンが第九を作曲したのは1822~1824年(52~54歳)。フランス革命後のヨーロッパは大きく変わりつつあった時期である。日本では江戸時代文化文政年間、葛飾北斎が富岳三十六景を描き喜多川歌麿が美人画を描いていた。ドイツ人シーボルトが蘭館医として長崎の出島に着任したのは1823年、ペリーの来航はその30年後の1853年、さらにその15年後1868年が明治元年である。要は200年以上前の江戸時代後期に第九は生まれたのである。
初演は1824年5月7日、ウイーンのケルントナートーア劇場。終了時ベートーヴェンは、聴衆の拍手と歓声が聞こえず、聴衆に背を向けたままスコアに見入っていた。アルト歌手のウンガーに促されて客席に向き直ったベートーヴェンは、思い出したように客席に頭を下げる。拍手喝采は頂点に達し、聴衆の多くが「ヴィヴァント!(万歳)」と叫んだと伝えられている。
わが国で初めて日本人による第九が演奏されたのは、1924年(大正13年)11月、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)奏楽堂で指揮はドイツ人グスターフ・クローン、演奏は同校の教授・生徒であった。それより6年ほど前、1918年、第一次世界大戦によるドイツ人捕虜たちが坂東俘虜収容所(徳島県鳴門市)で演奏していた。(これを題材にした2006年公開映画「バルトの楽園」は、国境を越えた友情と人道主義を描いて感動的な作品として知られている)
シラーの詩「An die Freude(歓喜に寄す)」は、シラー26歳の1785年に作られた。この詩に初めて作曲したのはケルナーという人で、翌年の1786年、その曲はベートーヴェンの住むボンにも入ってきて、ボンの青年達はこの長い詩を杯をあげながら歌ったという。シラーの詩がベートーヴェンのスケッチ帳に現れるのは1812年、41歳の時である。しかし、彼が作曲しようという気になったのは、それより20年も前のことという。

第九では「歓喜よ」「奇しき力は再び結び合わせ」「すべての人々は兄弟になる」「抱きあえ、幾百万の人々よ」などが独唱、合唱、各パートで繰り返し歌われる。各パートが単独で歌うところあり、ダブルフーガで追いかけるところあり、その音域の特徴に合わせて、巧みに歌いやすいように作られている。混声合唱のだいご味であり全く飽きさせない。これも第九の大きな魅力の一つである。

トランプさん、ネタニヤフさん、イランの指導者さん、そしてプーチンさん。戦争など止めて、第九の歓喜の世界に浸ってみませんか。
えちごや ひでひろ(1362)
(コーラス同好会Sing Joy 授業支援の会 企業ガバナンス部会)
(観光立国研究会 経済・産業懇話会)
(地域デザイン勉強会 超高齢社会問題研究会)
(元 三菱銀行)