9月1日(第468号)
廣島輝文
東京で生まれ、東京で育った私の本籍は、忍びの里として知られる三重県伊賀上野にある。家紋は橘で、わが家には「服部氏・楠木氏の流れをくむ」との言い伝えが残されている。人は家族から受け継いだ記憶を通して、自らの歴史を知ろうとする。この度息子と孫とともに京都・太秦(うずまさ)を訪れ、古代から中世へと続く歴史の流れをたどる事とした。

京都盆地の西に広がる葛野(かどの)の地は、日本の古代史を語るうえで欠かすことのできない場所である。この地を開いたのが秦氏(はたうじ)であった。
『日本書紀』や『新撰姓氏録』には、秦氏が大陸から渡来した一族として記されている。彼らは養蚕や機織、酒造、治水、土木など当時としては高度な技術を携え、日本の国家形成に大きく貢献した。また渡来系氏族の母を持つ桓武天皇の平安京遷都にも深く関わった。
太秦という地名も、秦氏が朝廷に絹を大量に献上した功績によって与えられた称号「禹豆麻佐(うずまさ)」に由来している。
最初に訪れた大酒神社は、秦氏の氏神として知られる。(祭神は秦始皇帝・弓月王・秦酒君) 境内は決して大きくはないが、古社ならではの静寂が漂っていた。この場所で、古代の人々が五穀豊穣や地域の繁栄を祈りながら暮らしていたことを思うと、千数百年という時間が一気に縮まるような気がした。
続いて訪れた蚕ノ社(木嶋坐天照御魂神社)は、養蚕文化と深く結びつく神社である。境内に立つ三柱鳥居は全国でも極めて珍しいものだが、三柱は秦氏の聖地といわれる稲荷山・松尾山・双ヶ丘を指している。日本古来の信仰と渡来文化が融合した姿を象徴しているように感じられた。

広隆寺は、秦河勝が建立した日本最古級の寺院として知られる。本尊は聖徳太子で、国宝第一号である弥勒菩薩半跏思惟像は、飛鳥文化の粋を今に伝えている。
秦河勝は聖徳太子の情報参謀として大陸系の技術とネットワークを駆使して内外の情報収集・分析・諜報の役割を果たし,本邦初の志能便(しのび)といわれる。また天下泰平を神仏に祈念する演舞(申楽)を創設した。

さらに桂川へ向かうと、現在の渡月橋付近には、葛野大堰の跡がある。古代の桂川は氾濫を繰り返す暴れ川だったが、大堰によって流れが制御され、広大な農地が開かれた。日本最古級の治水事業ともいわれるこの事業は、日本の土木技術の原点の一つであり、秦氏が「技術者集団」であったことを物語っている。
また、松尾大社は酒造の神として広く信仰されているが、その背景にも秦氏が伝えた醸造技術がある。日本酒に代表される日本文化は多様な人々の交流によって育まれてきたことを改めて感じた。
私が秦氏に関心を抱くのは、わが家に伝わる服部氏との関係である。古来より伊賀の服部氏の出自を秦氏に求める系図や伝承が多く存在する。京都太秦から山城、河内、大和、伊賀へと人々が移動し、文化や技術が広がっていったことは確かである。古代の技術者集団が、中世には地域の武士団へと姿を変えていった可能性を想像すると、日本史の連続性が見えてくる。
伊賀は忍びの里として知られているが、忍者は単なる隠密ではない。情報を集め、地形を読み、交渉し、薬学や火術にも通じた知識人であり、地域を守る実践的な技術者でもあった。その姿には、知恵と技術を重んじた秦氏の精神が受け継がれているように感じられる。
一方、わが家の家紋である橘は、四姓(源平籐橘)の一つ橘姓のシンボルである。橘氏は奈良時代の橘諸兄(葛城王)に発し、政治や文化の発展に大きな役割を果たした。南北朝時代に後醍醐天皇へ忠誠を尽くし葛城・金剛山系の千早城攻防戦で有名な楠木正成も橘氏流である。天険を利用し、隠密・攪乱・謀略を駆使したゲリラ戦で鎌倉幕府の大軍を翻弄した。
楠木正成の妹が服部元成に嫁ぎ、その子観阿弥、孫世阿弥(秦元清)が大和申楽(観世流)を完成させた。能は虚実を織りまぜ演じることで観客の意識を操る芸能といわれ、世阿弥は集大成として「風姿花伝」を著した。

松尾大社の近くにあり、橘氏の氏神である梅宮大社は、本殿に橘紋を掲げ、落ち着きのある神社だった。長い歴史を静かに見守ってきた社殿を前にすると、時代を超えて文化や信仰を受け継ぐ存在なのだと感じた。
今回の旅を通して、私は神社や寺院、川や橋、土地の名前には、千年以上前を生きた人々の営みが今も息づいており、その歴史は私たち一人ひとりの家族の歴史ともつながっている事を実感した。
息子と孫とともに歩いた太秦の道は、過去から未来へ記憶をつなぐ歴史の道であった。そのことを教えてくれた京都の一日を、私はこれからも大切に心に刻んでいきたい。
以 上
ひろしま てるふみ(1027)
(環境部会、歴史研究同好会)
(元東京三菱銀行)