ヒロシマ・ナガサキ被爆80年に寄せて
鈴木謙一(568)

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鈴木謙一さんが終戦に向けて論考を寄せられました。DF歴史研究会と映愛会に発信されたものですが、貴重なご意見なので、活躍するDF会員の活動として、皆さんに公開いたします。


1945年8月、広島(6日)、長崎(9日)に原爆が投下されて80年になる。この間、核兵器が再び実戦に使用されることは無かったが、核の廃絶、削減とは逆行し、世界は再び核軍拡に向おうとしている。そこで、改めて核兵器開発の歴史と日本の敗戦事情に関し拙文を纏めてみた。

左が鈴木さん

ナチスドイツがポーランドに侵攻した1939年、ナチスドイツが核兵器を保有する事を恐れた亡命ユダヤ人物理学者達が高名なアインシュタインの名前でルーズベルト米大統領に送った書簡が契機となり、1942年ルーズベルト大統領によって核兵器開発プロジェクトが正式に承認された。米陸軍のレズリー・グローヴス将軍総指揮の下、物理学者のロバート・オッペンハイマー(1904~1967)をプロジェクトリーダーとして発足したのが「マンハッタン計画」である。当初の本部がニューヨーク、マンハッタンに置かれていたことから命名されたが、オッペンハイマーの提案でニューメキシコ州のロス・アラモスに研究所が置かれることになった。そして僅か3年後の1945年7月、遂に人類史上最悪の「悪魔の兵器」が完成したのである。投下された費用は22億ドルもの巨額に達した。原爆1個当たりの製造コストは5億ドルと試算されている。オッペンハイマーは「原爆の父」と呼ばれて一躍ヒーローとなったが、戦後核兵器が人類に対する脅威であるとして水爆開発に反対した為、赤狩りの標的となって公職追放されてしまう。昨年3月に我が国でも公開された映画「オッペンハイマー」は彼の半生と苦悩を見事に描いた名作である。

以前、NHKBSで「チューブ・アロイズ(Tube Alloys)」というドキュメンタリー番組が放映された。日本語訳は「管用合金」という何の変哲もない意味だが、英国の核兵器開発計画のコードネームである。英国は核開発で米国に先行していたが、莫大な費用もかかる為、1943年のケベック協定(ルーズベルト/チャーチル会談)で「マンハッタン計画」に引き継がれる事になった。因みに日本でも1940年に理化学研究所の仁科芳雄博士が陸軍に原爆開発を提案し、陸軍も同研究所に開発を委託した経緯がある。

太平洋戦争末期、日本軍の執拗な抵抗に手を焼いた米国は、戦争を早く終結させる為に

完成したばかりの原爆を日本に使用する事を検討していた。政権内に於いてグルー国務次官、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官からなる「3人委員会」は慎重論で、やむ無く使用する場合でも事前警告すべきと主張したが、唯一の原爆投下強硬派のジェームズ・F・バーンズ国務長官に押されて卑劣な無警告原爆投下となった。

米国が原爆を投下した理由として、以下が指摘される。

  1. ソ連への威嚇。(ソ連に原爆の威力を見せ付けて、戦後、優位な地位を確保する。)
  2. 新兵器実験。(実戦で使用してみないと本当の威力が確認できない。)
  3. 核兵器開発の基礎資料取得。(同じ原爆でも広島には「ウラン型」、長崎には「プルトニウム型」と別種の爆弾を使った。)
  4. 日本を早く敗戦に追い込むと共に、ソ連の参戦を防ぐ。(ソ連が参戦し、満洲、樺太、千島、北海道を占領してしまう事態になれば、米国にとって戦後の対ソ連戦略上、大打撃になる。)

トルーマン政権としては、莫大な税金を投じた以上、目に見える形で国民に成果を誇示する政治的動機も強かったろう。ルーズベルトは生前、スターリンに対日参戦を懇願したが、その後の原爆開発によりソ連の助力なしでも日本を降伏させられる自信が付いた為、後任のトルーマンは翻意したと思われる。

原爆は本来、ナチスドイツに対抗する動機で開発されたが、ナチスドイツ降伏後、日本に使われることになった。結果論ではあるが、ヒトラーは日本を地獄に道連れにしただけでなく、人類初の被爆という災厄まで齎した最悪の存在だったと言っても過言ではない。

非人道的な原爆投下は明らかな国際法違反であるが、今でも米国人の多くは「原爆投下がなければ、多くの米兵や日本人が戦争で亡くなった筈であり、これを回避するには必要だった」と強弁する。第二次世界大戦は米国の栄光の象徴であり、米国が英雄であり、正義を体現した唯一の崇高な戦争だった。戦後の米国は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と数多くの戦争を行ってきたが、どれもパッとしないだけに、第二次大戦の勝利が燦然と輝くのであろう。原爆投下への疑義は米国の神聖な神話を汚すものと看做されるのである。それ故、米国では長く、原爆の被害を国民に示すことが「タブー」となってきた。1995年にスミソニアン宇宙航空博物館が被爆資料の展示を企画しながら反発を受けて中止に追い込まれたことはその現れだった。だが、第二次大戦を戦った退役軍人が少なくなり、1990年代とは状況が変わった。最近の調査によれば、米国でも若い人ほど「原爆投下は正当ではなかった」と考える傾向にある。(18~29歳では44%が「正当ではなかった」、27%が「正当だった」と回答)

 1945年5月にドイツが連合軍に無条件降伏した後の7月26日、米英中三国代表の名前  

で日本に対し降伏要求最終通告が突き付けられた。「ポツダム宣言」である。ソ連は蚊帳の外に置かれた為、米国に抗議したが、スターリンの署名の無い宣言はソ連に望外の効果を齎した。ドイツ降伏後、日本は米国から無条件降伏を勧告されていたが、日本陸軍は反対し、ソ連へ講和の仲裁を依頼する事を主張した。米英に対し日本に有利な条件で仲介出来るのはソ連しかないとの理由である。鈴木首相、阿南陸相、米内海相も支持し、7月13日、佐藤駐ソ大使がソ連に日本政府の要望を申し入れた。それ故、日本政府は宣言にソ連が名を連ねていないことで、ソ連が講和を仲介する意向であると都合良く解釈した。この誤った判断も一因となり、鈴木首相は「ポツダム宣言を黙殺する」と発表し、「日本の降伏前に参戦したいソ連」、「原爆を日本に投下したい米国」の思う壺になったのである。

スターリンがルーズベルトとの密約により、対日参戦するとの情報は、事前に北欧やスイスの在外駐在武官からも参謀本部に齎されていたが、不都合な情報として意図的に無視され、指導部に共有されることはなかった。情報軽視は日本軍の宿痾であった。

ポツダム宣言受諾を巡って昭和20年8月14日正午から宮城内で御前会議が開かれた。

最後まで徹底抗戦を主張する阿南陸相の抵抗で会議は延々続いたが、被爆の直後でもあり、「これ以上国民を苦しめたくない」という昭和天皇の「聖断」により、受諾が決せられ、翌15日に所謂「玉音放送」で国民に周知されることになって、天皇自ら録音された。陸軍最後の悪足掻きとも言えるクーデター「宮城事件」が起こったのは14日の深夜であった。一部の将校が玉音放送を阻止すべく、録音盤の強奪を企てたのである。彼らは森赳近衛師団長を殺害して偽の師団長命令を発し、麾下の近衛第二連隊の兵士を動員して宮城を占拠し、必死に捜索したが遂に発見出来ず、クーデターは未遂に終わった。このクーデターを描いた「日本のいちばん長い日」(半藤一利氏の名著)は、1967年に三船敏郎主演で映画化され、大ヒットした。ご覧になった方も多いと思うが、三船扮する阿南陸相割腹の壮絶なシーンは、滅びゆく帝国陸軍の断末魔を象徴するかの如くであった。最早大勢が決した中で、半狂乱になってクーデターに邁進する畑中少佐等の姿はドン・キホーテさながらに滑稽であり、哀れでもあるが、彼らは飽く迄も真剣であり、戦争の狂気を思い知らされる。戦争は一旦始まると、所期の目的を離れ、戦争継続自体が目的化してしまう処にも恐ろしさがある。

日本が三国同盟を締結し、無謀な対米英戦争に踏み切ったのは、当時、破竹の勢いで快進撃を続けるナチスドイツに眩惑された面も大きい。ドイツが世界を征服する前に仲間に加わり、ドイツの獲物の分け前にありつきたいという本音も否定出来ないだろう。つまり、ドイツという「他力本願の戦争」だったとも言える。そうであるなら、ドイツが連合軍に降伏した1945年5月7日以降、既に継戦能力を喪失していた日本も速やかにドイツに殉じるべきであったろう。現に同じ枢軸同盟国のイタリアはさっさとドイツに見切りをつけて連合軍に与し、ドイツに宣戦布告した。

1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲し、米国に宣戦布告した。ドイツが同年6月22日、330万人の大軍で開始した対ソ・バルバロッサ作戦は当初は快進撃を続けたが、12月5日、モスクワ攻略に於いて補給不足と冬将軍(気温零下30度、積雪1米)、ソ連軍の頑強な抵抗に遭って頓挫し、翌1942年初頭には完全に撃退されていた(その後、ドイツ軍は反攻するも、作戦は失敗)。「勝ち馬に乗った」筈の日本に早くも誤算が生じていた訳だが、仮に正確な情報が伝わっていたとしても大規模作戦は中止出来なかったであろう。

歴史にIFは無いと言われるが、「若し」日本が1945年5月か6月に降伏していれば、当時は未だ原爆は完成しておらず、ソ連も日本に侵攻する準備が整っていなかったので、広島、長崎の被爆、満洲居留民の悲劇、シベリア抑留、北方領土略奪も避けられた筈である。孤立無援になった日本は意地になって継戦し、あろうことか、日本に攻め込もうとしていたソ連に仲裁を懇願し、いいようにあしらわれている間、徒らに満洲侵攻の時間稼ぎをさせてしまった。日本の現近代史上、稀に見る大失態であろう。ソ連の参戦による我が国の災難は筆舌に尽くし難い。残忍非道なソ連兵による蛮行は、ここでは割愛するが、現在公開中の映画「黒川の女たち」も当時の悲劇の一端を今に伝えている。

日本は1937年7月から中国との戦争を始め、更に1941年12月に対米戦争に突入した。 1945年8月の敗戦までの8年間に日本人の死者だけで310万人に達した。ヒロシマ・ナガサキの犠牲者だけでも25万人と言われる。戦争の悲惨さ、無意味さは語り尽くされてきたが、21世紀の今日に至っても世界中で戦火は止まず、毎日のように殺戮と破壊が続いている。犠牲になるのは常に無抵抗な女子供、弱者である。人類の愚かさを今更嘆じても詮無いが、改めて戦争や原爆の犠牲者を哀悼すると共に、世界から戦争が消えることを切望するのみである。

私がここで強調したかったのは、当時の政府、軍部の致命的な判断ミス、情報軽視という「人災」により、被爆、満洲、シベリア抑留、北方領土喪失などの甚大な災厄がもたらされ、死なずに済んだ膨大な命が失われたという厳然たる歴史的事実です。敗戦時のみならず、対中、対米英戦争も明らかな誤判断だったことは自明でしょう。「ナチスドイツ頼みの他力本願戦争」という規定は(余りにも恥ずかしいので?)必ずしも定説にはなっていませんが、第二次大戦開戦後のドイツの快進撃を目にして軍のみならず、国民までも「バスに乗り遅れるな」との大合唱で三国同盟を締結、破滅への道に突き進んでいったことは明らかです。

何も真実を知らされず、政府や軍のプロパガンダと言論統制によって騙され、翻弄されてきた国民、巻き添えを食ったアジアの人々こそ最大の被害者で、焦熱地獄の中で命を落とした被爆者、野蛮なソ連兵に凌辱された日本人女性達の無念は如何ばかりだったろうと察せられます。私自身、母が旧満洲の斉斉哈爾(チチハル)で敗戦を迎え、命からがら逃避行の末、辿り着いた極寒の大連で生を受けた者として、他人事ではありません。

上述した「人災」は戦後、特に問題視されず、「一億総懺悔」で全てが水に流されたように感じます。戦争の記憶が忘れられつつある今こそ「歴史を学び、歴史に学ぶ」ことの重要性を再認識すべき時期だと愚考する次第です。

「日ソ戦争」(麻田雅文著 中公新書)
「独ソ戦」(大木毅著 岩波新書)
「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」(半藤一利著 PHP文庫)
「日本のいちばん長い日」(半藤一利著 文春文庫)
「ソ連が満洲に侵攻した夏」(半藤一利著 文春文庫)
「消えたヤルタ密約緊急電 情報士官小野寺信の孤独な戦い」(岡部伸著 新潮選書)他


本稿は、鈴木さんが同時代の日頃の研究成果を、AIなどに一切寄らず、ご自身の言葉で語られたものです。皆さんのご感想、ご意見をお待ちしています。

以 上(小林慎一郎)

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