きれいごとでは済まされないダイバーシティ
―文化的寛容の限界と日本社会の選択―

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9月1日(No.444)
秋山武夫

日本では、少子高齢化や人口減少による労働力不足への対応として、外国人の受け入れが進んでいる。技能実習制度や特定技能制度を通じて、ベトナム、フィリピン、ネパール、インドネシアなどからの外国人が地方部にも定住しつつあり、一部地域では外国人住民の比率が急速に高まりつつある。その結果として、文化的摩擦や治安への不安を訴える声も散見されるようになった。ゴミの分別、公共空間での静けさ、相互配慮など、これまで日本社会で自然に共有されてきた価値が損なわれているとの指摘もある。他方で、国際社会からは、外国人受け入れに消極的な日本政府の姿勢に対し、「閉鎖的」「排他的」「非リベラル」といった批判が寄せられている。

本稿では、「ダイバーシティ(多様性)」という理念に立ち返り、アメリカという多様性の先進国であるアメリカの現状を素材として、筆者の半世紀にわたるアメリカでの経験をもとに、日本社会の進路を考察してみたい。

ダイバーシティという概念には、性質の異なる二つの意味が混在している。

第一は、「機能的ダイバーシティ」であり、これは、多様な知識・経験・思考様式などが、組織や社会などにおいて協働することにより、創造性や適用力、生産性や効率を高めるという構造的効果を指す。たとえば、異なる専門分野の人間がチームを組んで問題を解決する、といった場面が典型である。

第二は、「文化的ダイバーシティ」である。これは、根本的な価値観、行動様式、文化的慣習の違いに関わるものであり、人間の生き方そのものの多様性を問題とする。ここでは相互理解や寛容、調整が不可欠となり、摩擦や誤解を生じやすい。この種の多様性は「うまくいかない可能性」を内包しているとすら言える。

日本におけるダイバーシティ論では、これら性質の異なる多様性が混同されたまま一つの価値として語られている。「多様性は社会にとって善である」といった表現が思考停止の道徳的言葉となり、本来区別されるべき構造的意味が捨象されてしまっている。ここで私が主張したいのは、「ダイバーシティを語るならば、まずはそれが何の多様性を指しているのかを明確にしなければならない」という一点に尽きる。宗教的ダイバーシティと性的ダイバーシティとでは、社会における意味も政策的含意も全く異なる。この前提を欠いたまま、単に「多様性を受け入れるべきだ」といった論法を続けることは、政策設計としても、社会設計としても危うい。

アメリカにおいては、こうした二種の多様性の混同が深刻な摩擦をもたらし、文化的対立が制度の根幹を揺るがす事態となっている。日本がこれを無批判に模倣しつつある現状には副次的な問題もあるが、それ以上に重要なのは我々自身が多様性という概念を構造的に整理し直すことである。

文化的ダイバーシティの議論は一般に、人種、性別、宗教、性的指向、文化的背景(本人または先祖の出身地に由来する文化的違い、いわゆる National Origin)、障害の有無などを出発点とする。そして、これらの違いを尊重することが、社会的公平性や正義の実現に資するという前提に立っている。

しかしながら、文化的ダイバーシティとは本来、個人の属性を基盤とした「差異」の広範な概念であり、経済的格差、階級差、教育歴なども人間の多様性の一部として含まれることは、哲学的にも社会理論的にも確立された理解である。たとえば、ワーキングクラスとエリート層とでは、価値観や政治的態度が大きく異なる。

それにもかかわらず、ダイバーシティの議論において人種や性別といった特定の属性だけが強調される傾向は、極めてご都合主義的であり、本質的な問題から目を逸らすことにつながる。多様性を本気で論じるのであれば、その対象を恣意的に限定することなく、構造的差異全体を見据える姿勢が不可欠である。

アメリカはかつて「メルティング・ポット」と称され、異なる人種や文化を一つに融合させることが理想とされた。しかし近年では、「モザイク型」の多文化共存主義、すなわち各文化が独自性を保持したまま共存するという理念が主流となっている。ラティノ系、アジア系、先住民などが自己の文化的誇りを再認識する運動と連動し、「多様性(ダイバーシティ)そのものが価値である」という考え方が社会の中に根づいてきた。

確かに、ダイバーシティはアメリカが誇る基本理念の一つである。しかし、その実現は常に困難を伴ってきた。人種、性別、宗教、性的指向――あらゆる「違い」は尊重されるべきであるという建前は存在するものの、現実にはそれが亀裂や対立の火種ともなってきた。今日では、宗教・人種・社会階層・教育水準といった違いに基づき、社会は複数の「部族」に分断され、各集団が自己のアイデンティティを強く主張するようになっている。国民統合はいよいよ困難となり、ダイバーシティは理想であると同時に、制度的・文化的に管理困難な現実でもある。

このような分断状況を戦略的に活用したのがトランプ大統領である。彼は多様性を「価値」ではなく「対立軸」として用い、「我々対奴ら(Us vs. Them)」という構図に転換し、敵味方の明確な線引きを行った。
具体的には以下のような事例が挙げられる。

  • メキシコ系移民を犯罪者として敵視
     白人労働者の安全と雇用を守るという名目のもと、非白人系移民の排除を正当化した。これにより、白人保守層の間に文化的被害者意識を喚起し、政治的動員の基盤を形成した。
  • イスラム圏7か国からの入国禁止(2017年大統領令)
     「国家安全保障」の名のもと、イスラム教徒を事実上ターゲットにした入国規制を導入した。これは宗教を理由とする選別的政策であり、宗教的分断を国家政策に組み込むものであった。
  • Black Lives Matter(BLM)運動への敵対的対応
     ジョージ・フロイド事件以降の抗議運動に対して、「秩序を乱す暴徒には暴力で応じる」と主張し、構造的な人種差別や警察暴力の問題を「治安問題」として再定義した。これにより、白人層の不安と怒りを政治的に動員した。
  • DEI(多様性・公平性・包摂性)政策への反発
     大学やメディアにおける進歩的教育を「急進的価値観」と断じ、反DEIの姿勢を明確にした。結果として、進歩主義と保守主義の間の部族的対立が一層激化することとなった。
  • 「我々の国を取り戻す(Take our country back)」というスローガン
     表向きは抽象的なナショナリズムだが、そこには「アメリカ=白人キリスト教文化」という暗黙の前提が内包されていた。これにより、人種・宗教・移民・ジェンダーといったアイデンティティのすべてが政治的対立軸として再編成されるに至った。

かつてのアメリカは、個人主義・資本主義・信教の自由という比較的シンプルなイデオロギーによって統治されていた。しかし多様性の増大は、制度と文化のあいだに深刻な亀裂を生み、社会の分裂を恒常化させるリスクを孕んでいる。そしてトランプ大統領は、すでに存在する分裂を利用し、単に加速させたにすぎない。

今や、ダイバーシティの副作用は制御困難なレベルに達し、社会の混乱と断絶のアキレス腱となっている。共和党と民主党の対立の激化は、この分断構造の直接的表出であり、今後この問題が根本的に解決される見通しは極めて暗い。

筆者が「暗い」と表現せざるを得ない理由は、この分断が理念や制度の次元にとどまらず、宗教という人間の根本的な信念構造にまで深く根を張っているという事実にあるからである。

宗教とは、これを絶対的なものとして信じ込むことであり、異なる考えや思想を排除する傾向を本質的に含んでいる。とりわけ一神教においてこの性質は顕著であり、相互理解や寛容、調整といった考えとは相いれない。現在の世界においても宗教の違いに基づく紛争が多発し、人々が殺戮し合う事態が続いている。歴史的には十字軍戦争や、ヨーロッパにおける三十年宗教戦争などがあり、現代では同じイスラム教内部においてすら、スンニ派とシーア派の宗派対立により、流血の抗争が繰り返されている。

アメリカにおいても、人口の四分の一を占める福音派は、聖書を文字どおりに解釈する姿勢をとる一方、カトリックはこれを象徴的・比喩的に受け取る傾向がある。この違いは「人工中絶」や「移民問題」など、社会の根幹に関わる分野においても激しく対立し、宗派間の政治的争いにまで発展している。現在、福音派はその組織力と政治的動員力を背景に、アメリカ政治において極めて大きな影響力を保持している。たとえば、最高裁判所においては、彼らの価値観を共有する判事の任命に成功し、ダーウィンの進化論を教育現場から排除する法案の提出にまで至っている。その実現を目指している。これに対し、カトリックや世俗主義の立場をとる人々にとっては、そのような動きは根本的な価値観への侵害であり、到底受け入れがたい。

言い換えれば、宗教を尊重するということは、宗教が本質的に持つ排他性を容認することであり、それは「多様性(diversity)」という理念と明白に矛盾する。このように、アメリカの制度や建国理念そのものが内在的に矛盾を孕んでおり、それが国家の統合を脅かしているのである。

これは宗教の領域に限らず、言論・思想・政治的イデオロギーにおいても同様であり、アメリカが分裂国家へと向かう兆候を強めている。私の見方では、これらは文化的ダイバーシティが抱える本質的な構造問題であり、トランプ大統領以降に始まった現象ではない。むしろこの分裂の可能性はかねてより高く、現在の民主主義、それに伴う政治的対立構造がこれを一層助長しているに過ぎない。

アメリカの建国理念である「自由」「平等」「信教の自由」といった価値は、宗教対立の前ではあまりに脆弱である。宗教に限らず、多様な価値観の対立がいたるところに爆発の火種を抱えており、単に「ダイバーシティ」という美名のもとでアメリカを理想化することはもはや困難である。価値観の違いを調整することは至難の業であり、その理念と現実の乖離を正確に理解し、舵取りを誤らぬことがなければ、国家の統合は不可能となる。

そして、まさにいま、その分裂の兆候が表面化しつつある。他民族国家アメリカ、多文化国家アメリカという構造のアキレス腱が、今、露呈しているのである。

アメリカやヨーロッパが制度的に失敗してきた最大の要因は、機能的ダイバーシティの効用を過信する一方で、文化的ダイバーシティの潜在的危険性を過小評価してきた点にある。多くの国々で、文化統合の基盤を欠いたまま移民の受け入れを拡大した結果、文化的対立や価値観の分断が深刻化し、制度的崩壊の兆候すら示している。

日本は、地理的・歴史的背景のもと、比較的均質な価値観と緩やかな共通感覚に支えられて社会的安定を保ってきた。この曖昧な同質性は、社会の統一性を維持するために明確な排他的イデオロギーを必要とせず、秩序形成の基盤として機能してきた。他国に見られぬ特異な歴史的成果である。

日本人は、出生時に産湯・お宮参りで神道に触れ、結婚は教会で挙式を行い、死後は仏教式の葬儀と墓に入るという、宗教的習合を日常化させてきた民族である。こうした曖昧さに基づく寛容と和の文化構造が、単一の教義を絶対視し、他を排斥する文化と交わるとき、その結果は真の融合となるのか、それとも不可視の亀裂を生むのかが問われる。いわば、日本は地理的・歴史的に与えられた偶然によって、ダイバーシティの副作用を深刻に論じる必要なく、安定した社会を維持してきた。しかしながら今日、日本もまた移民受け入れを現実的な政策課題として進めつつある。その一方で、文化的摩擦や制度的副作用への十分な対応措置が講じられているとは言い難い。理念先行でダイバーシティを推進することは、かえって日本社会の基盤を揺るがしかねない。

確かに、相互理解や寛容、調整のもとで多様な価値観を受け入れることは理想であろう。しかし、それは現実にはきわめて困難な理想であり、実現可能性には疑問が残る。たとえ日本が労働人口の不足や人口減少といった喫緊の課題に直面しているとしても、その解決のために社会の根本的安定基盤を犠牲にするようなことがあってはならない。さもなければ、日本も他の多くの国々と同様、宗教・人種・民族・文化をめぐる対立に巻き込まれ、それを克服するために多大な社会的・経済的コストを支払うことになるであろう。

むしろ今こそ、日本の特異性――いわゆる「ガラパゴス現象」と揶揄される文化的独自性――を再評価すべきである。同時に、確固たる宗教やイデオロギーを持たぬがゆえに、日本社会がこうした多様性の波に対して本質的に脆弱であるという現実も、冷静に受け止めなければならない。

たとえ国際社会から「閉鎖的」「排他的」「非リベラル」といった批判を受けることがあろうとも、日本は主権国家として、自国の歴史・文化・制度に根ざした価値観を守り抜く正当な権利を有する。国際的潮流に無批判に追従するのではなく、今こそ冷静かつ慎重に、自国の在り方を見つめ直すべき時期にある。

以 上


あきやま たけお(1417)
(NY州弁護士)
(元 丸紅)

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