合田隆年さん追悼
~メンバーズエッセイ特別編~

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創立メンバーとしてディレクトフォースの礎を築かれた合田隆年さんが、昨年12月10日に逝去されました。合田さんのお人柄やご貢献を偲び、親しく交流された11名の会員に追悼文をお寄せいただきました。

お名前会員番号
酒井 尚平74
河島 彦明81
浅野 応孝84
近藤 勝重115
坪井 壮一郎121
石原 秀郎148
小林 止650
望月 志郎737
高野 直人834
水野 勝888
平尾 光司1190

追悼 酒井尚平

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追悼 河島彦明

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合田さんを偲んで 浅野応孝

私は2003年にDFに入会し、同じ化学品を扱う会社の仲間として、合田さんとはすぐに親しくお付き合いが始まりました。技術系の有志で現在の技術部会の前身となる「工場支援の会」と「特許支援の会」を立ち上げた際には、合田さんには事務所メンバーとして力強く支えていただきました。
その後、事務系ご出身でありながら自らもメンバーに加わり、技術系以上の熱意で活動に取り組まれる姿には、常に感心させられました。特に合田さんの働きかけで、十数の大学へ出前授業を行えたことは、私にとっても貴重な経験となりました。
合田さんは話題が豊富で、水彩画の作品も印象深く残っています。ゴルフをこよなく愛され、奥様と日本全県のゴルフ場を巡られたうえ、ご自身の水彩画を添えた立派なゴルフ記を出版されたことには、ただただ敬服するばかりでした。
また、2005年には合田さんのご尽力で宇部工場の見学と宇部カントリーでのゴルフ会が実現し、後続組から合田さんのホールインワンを目にしたことは忘れられない思い出です。私が不調で100を超えてがっかりしている時、「またアレンジするから」と優しく声をかけてくださったことも胸に残っています。
合田さんの温かさと行動力を思い返すたび、深い感謝の念が込み上げます。心よりご冥福をお祈りいたします。


合田さんは“愛する人”でした 近藤勝重

花を愛し、家族を愛し、ゴルフを愛し、京大を愛し、DFを愛し、絵を愛し、、、、、、
2025年12月10日、花小金井での家族葬には多くのDFの要人が集まった。
故人が彩遊会で好んで描かれた美しい小金井公園の一角で、ご自身の絵と無数の花びらに囲まれてのお見送りだった。
私はDF創立2年目に入会、合田さんは創立メンバーとしてすでにDFで活躍されていた。
京大経済学部の後輩として常に目をかけていただき、DFでの活動の道案内をしてもらった。テニス同好会も一緒に創設し何度かプレーもした。ゴルフ同好会有志特別版ともいえる有名ゴルフ場をたずねる旅行会「日月会」にも入れていただいた。
大学関係では合田さんが専務理事事務局長を務める京大経済学部同窓会東京支部の常務理事に抜擢いただきともに多くの活動を行った。この活躍による貢献のために合田さんは京都大学学長賞を授与されている。ご自身がもっとも誇りにされていることだと思う。
DFでのご活躍の最後は、「20周年記念事業実行委員長」をつとめてもらい、1年半にわたる委員会を取り仕切り、常に厳然とした判断を下していただいた。
おかげで、2022年記念事業は山場となる学士会館での記念総会・懇親会を盛大に取り行い、年末にはフィナーレの記念シンポジウムまで終えることができた。
合田さんのご指導がなければ出来ないことであった。ただ感謝あるのみである。


追悼 坪井荘一郎

この度、ご逝去されましたことをお聞きし、突然の悲報に接し、茫然としております。
昨年12月のDF彩友会絵画展に毎回楽しみで出向きました処、常連の合田さんの作品がなく入院中とお聞きしましたが、黄泉に旅立たれたとは「え!あんなお元気だったのに」まだ信じられずにおります。
合田さんとはDF入会時代の事務局時代から今日まで約23年間に亘り公私共大変ご指導・ご厚誼を頂きお世話になりました。数々の思い出の中で特に印象の残るものの一つに「DF模擬取締役会」の企画実践でDF創業時のインパクト強い広宣活動でマスコミの高い評価をいただきDFのPRに多大の貢献をされました。創業間もないDFをいかに認知させるか事務局員全員で動こうが口癖でした。折に触れいつもアドバイスを頂き常に胸中にあります。
公私の私の部分ではゴルフと中央沿線の会員の会「中央線会の代表・創業者として会員の相談相手・親睦にお世話いただき毎年4月の小金井公園の花見会は楽しい思い出でいつまでも残ります。ゴルフも1組で定期的なゴルフを時には奥様ご一諸の仲睦まじいお姿が印象に残ります。
思い出は中央線会の仲間と共につきませんがどうか安らかにおやすみください。
公私共にお世話になりました。有難うございました。
合掌。


思い出のホールインワン!! 石原秀郎

合田さん、謹んでお別れのご挨拶を申し上げます。
昨今、奥様を見送られ、ご自身の体調を崩されていたと伺い、気になっていました。
合田さんとはデイレクトフォース入会時からお付き合いをしていただき、技術部会、理科実験教室の立ち上げにご尽力されたことは感謝に堪えません。
多くのDF関係者が合田さんとの思い出があったと思います。私にとっても思い出が絶えませんが、ゴルフとお酒で楽しかった付き合いが走馬灯のごとく思い出されます。
今から丁度20年前の2005年9月29日に技術部会で宇部興産の宇部工場を見学した後宇部カントリークラブでゴルフを楽しみました。その時原田さん(故人)、合田さん、中沢さん(退会?)、私の4人がプレーし、阿地須コースの12番ホールでなんと合田さんがホールインワンをされたことが今でも鮮明に覚えています。
お酒の付き合いも幾度かありましたが、ある時讃岐うどんでおいしい店が恵比寿にあると言われ、同行し、お酒が進むにつれて垣根のなく語り合い、私の家内が旧姓合田と言う苗字で愛媛県の最も観音寺に近い当時の川之江市に住んでいたので古い先祖は同族に近かったのではとか、家内の弟が合田さんと同じ観音寺一校の後輩であると言った話、また合田さんと奥さんののろけ話などを酔いに任せて語りあったことが忘れられません。
合田さんは人柄が温和でだれとでも親しく接する方でした。
久遠の地でドボルザークの新世界を聴きながらお酒をたしなみ、ゴルフに興じておられることでしょう。
心からご冥福をお祈りいたします。


合田さん、お世話になりました 小林止

合田さん、お世話になりました。
1年前に奥様を亡くされ、今度は合田さんご自身が!天国への旅立ちはちょっと早すぎましたが、愛妻家の合田さん、奥様を追いかけて行かれたのでしょうか?
私は2009年に当時のDF事務長河村さんの紹介でDFに入会し、同時にゴルフ同好会に入会。最初のコンペで優勝したら次回のコンペの幹事は優勝者が幹事と言われて私のメンバーコースの藤ヶ谷カントリーでコンペを開催。これで終わりと思っていたらゴルフ同好会の世話役の吉備さんが入院、そのまま急逝され、DFゴルフ同好会会長の合田さんから世話役を懇請された。合田さんとは以来16年のお付き合いである。
私の出身地が山口県長門市であり合田さんの務められた宇部興産の本社が山口県であり、話は弾んで可愛がってもらった。お陰で合田さんが過去にプレーされて良かった思い出のゴルフ場に沢山、連れて行って頂いた。関西の名門、茨木カンツリー倶楽部、広野ゴルフ倶楽部、関東ではボナリ高原ゴルフクラブ、笠間東洋ゴルフ倶楽部等あげればキリが無い。当然のことだが合田さんのご学友やDFの仲間、良い友達が増えていった事にも感謝!
有名な話だが合田さんは愛妻家で(花には水を妻には愛を)を実践された方である。家にいらっしゃる時、ご自身でお昼の用意をされると聞きました。大好きなうどんは出汁の取り方からこだわりがあり。話が止まらない。この話は恐ろしくて私の家内には言えない。


粋で、少しおしゃれな先輩 望月志郎

2010年DFに入会し技術部会でお会いしてから今日までの合田先輩の印象であります。きっかけは技術部会の懇親会でとなりの席になった時に、私が大学院生の頃「宇部興産でポリエチレンペレットの空気輸送の実験をした」と云う話をしたら、「自分は昭和35年京大経済学部卒業で宇部興産にいて、化学事業も担当していた」との事で、 「先輩」であり、「理系」と思っていたら「文系」である事も知りました。
その後、先輩には目をかけて頂きいろいろな場面で、あの「低い 細い 優しい声」で「粋で」「示唆のある」アドバイス、人生訓を囁いて頂きました、今でも心に残るものを少し披露しますと
*この歳になると
 「セカンド イズ ベスト」 「争っても何の利もない」
 「少しのおしゃれは気持ちを若くする」
*よくご一緒したゴルフで
 「ゴルフは第3打が勝負 飛距離ではない」 
*好きな飲み会で
 「自分の話より 人の話を聞いて知れ」 「楽しい酒にする」

等々、説明は不要と思います、判っているがなかなか難しいです。
最近はお会いする機会も少なくなり淋しく思っておりました。
これまでに頂いた教訓の数々を心の宿に、残りの人生を少しでも豊かにする事が、先輩から頂いたご恩に報いる事と思っています。
ご冥福を心よりお祈りいたします。


合田隆年さん追悼 高野直人

初代アカデミー事業部長であり、理科実験グループの創業メンバーでもあった合田さん。私は六代目のアカデミー事業部長を拝命しましたが、合田さんからは事務所に来られる度に、創業時のご苦労をはじめ様々な経験談を伺い、ご指導をいただきました。DFの15周年誌『活躍するシニア集団』の中に創業時のメンバーの対談が掲載されていますが、その中で、最初の「顧客」は横浜市立大学であったと述べておられます。その後、次々と顧客開拓を進められ、現在のアカデミー事業の礎を築かれました。お話の中で特に強調されていたのは「アカデミーはディレクトフォースのフラグシップ」であるとの思いでした。私もその思いを胸に刻んでアカデミー事業部の運営を行って来ました。
大学の数の増加に伴い、フォルダーにメモを含めて膨大な紙資料が保存されて行きました。当時、DFのIT環境は未整備で、合田さんご自身もこの分野は必ずしも得手ではなく、毎年、他の会員に依頼されたであろうパワーポイントの講義資料をお持ちになり必要な箇所の修正を依頼されたことを懐かしく思い出します。
こよなくDFを愛し、こよなくお酒を愛した合田さん、心からご冥福をお祈りします。
合掌


合田隆年さんを偲んで 水野勝

23年前の2002年9月24日に『中間法人ディレクトフォース』はこの世に生まれ出ました。日本経済新聞にその報道が出て数日たったある日、私の出身企業である丸紅(株)秘書部に一本の電話が入りました。
『新聞で見ましたが、ディレクトフォースという会社を立ち上げた水野勝さんとは、化学品本部のあの水野さんでしょうか?』
『失礼ですが、どちら様でしょうか』
『宇部興産という会社に居た合田隆年と申します』
忘れもしない、これが合田さんとディレクトフォースとの初接点でした。
ご本人は宇部興産を卒業された後、個人的に一橋大学の社会人講座に参加されていたが、ディレクトフォースの設立を知るや、直ちに参加を表明されました。会員番号17番でした。嬉しかったですね。最初に、自発的にDFの扉を叩いて入会してきてくれた実質第一号会員でしたから。
それからの合田さんは、大学での講義に『企業社会での経験豊富な人材が現役大学生に自らの経験を語る』をテーマに国公立大学・私立大学を伝手を辿って訪問して回りました。今と違って、『お金儲けを長年やってきた方々でしょ? そんなお話を学生になさるのですか?』との反応でした。ある大学では、6~7人の小グループに分けて、『会社は誰のものか?』をテーマの討論は今でも意義のあるものです。左様に数々の経験は、今や、DFにとって大きな財産になりました。
合田さんの最大の作品は、多分『模擬役員会』でしょう。学生にとって企業の役員会というものは、言葉分かってもピンとこない制度です。これに取り組みました。DFの面々で、拓殖大学でそれを演じました。素人役者7名ほどが、合田さん製作のシナリオに従って取締役を演じました。あるプロジェクトからの撤退稟議につき役員会での討論・決議に到るストーリーを演じました。責任追及の役を演じた会員の迫力が見ものでした。合田さんの脚本が見事だったからで、誰にでも出来る仕事ではないと思いました。
合田さんは愉快なタレント(才能)をお持ちでした。我々は素人役者を演じたにすぎません。名古屋の大学へも出張公演(?)しました。
本当に有難うございました。


合田隆年さんを偲ぶ 平尾光司

合田さんと初めてお会いしたのはDF発足間もない頃であった。
当時、DFでは暗中模索でビジネスプランを議論しており、その中で合田さんから大学などへの授業支援の構想が提案された。生きた日本産業論を学生に教えるというコンセプトであった。
専修大学の教員をしていた私は経営学部の懇意にしていた教員に相談したところ「教員の敬遠する朝9時からの1限目なら可能性がある」との反応があった。早速に合田さんに相談した。専修大学のキャンパスは小田急線の向が丘遊園にあり合田さんの花小金井のご自宅を朝7時前に出ないと授業に間に合わない。しかし合田さんは快諾されてDFのメンバーに参加呼びかけられて「現代日本産業論」講座がスタートした。
また授業を担当したDFのメンバー中心に専修大学に隣接する川崎国際カントリークラブでのゴルフ会を組織され幹事をつとめていただいた。
合田さんはその後DFアカデミーのリーダーを10年ほど務められ、大学の授業支援の基礎を固めていただいた。アカデミー以外にも技術部会、理科実験、彩遊会、ゴルフ同好会など多様な活動に参加されいずれの活動にも見識とお人柄でリーダーとして活躍された。
特にDF創立20周年記念委員会のリーダーとして「楽しく愉快に、未来へ」をキーワードとした記念総会を大成功に導かれた。
合田さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
合掌


(見目久美子)

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